日の事、不図思付いて木下主筆を其自宅に訪問した。初めは人相の悪い奴だと思つたが、黒木綿の大分汚なくなつた袴を穿いて居たのが、蕎麦屋の出前持をする男には珍らしいと云ふので、褊狭者《ひねくれもの》の主筆が買つてやつたのだと云ふ。
 主筆は時々、「野村君は支那語を知つてる癖に何故北海道あたりへ来たんだ?」と云ふが、其度渠は「支那人は臭くて可けません。」と云つた様な答をして居た。


 北国の二月は暮れるに早い。四時半にはモウ共立病院の室々《へやへや》に洋燈《ランプ》の光が華やぎ出して、上屐《うはぐつ》の辷る程拭込んだ廊下には食事の報知《しらせ》の拍子木が軽い反響を起して響き渡つた。
 と、右側の或室から、さらでだに前|屈《こご》みの身体を一層屈まして、垢着いた首巻に頤を埋めた野村が飛び出して来た。広い玄関には洋燈の光のみ眩しく照つて、人影も無い。渠は自暴糞《やけくそ》に足を下駄に突懸けたが、下駄は翻筋斗《もんどり》を打つて三尺許り彼方《むかう》に転んだ。
 以前《まへ》の室から、また二人廊下に現れた。洋服を着た男は悠然《ゆつたり》と彼方へ歩いて行つたが、モ一人は白い兎の跳る様に駆けて来ながら
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