い」に傍点]でなく、国訛りの「ねす」を語尾につける事も無かつた。
 半月計りして其下宿屋は潰れた。公然《おもてむき》の営業は罷《や》めて、牛込は神楽坂裏の、或る閑静な所に移つて素人下宿をやるといふ事になつて、五十人近い止宿人《おきやく》の中、願はれて、又願つて、一緒に移つたのが八人あつた。野村も竹山もその中に居た。
 野村は其頃頻りに催眠術に熱中して居て、何とか云ふ有名な術者に二ヶ月もついて習つたとさへ云つて居た。竹山も時々其不思議な実験を見せられた。或時は其為に野村に対して一種の恐怖を抱いた事もあつた。
 渠は又、或教会に籍を置く基督信者《クリスチヤン》で、新教を奉じて居ながらも、時々は旧教の方が詩的で可いと云つて居た。竹山は、無論渠を真摯な信仰のある人とも思はなかつたが、それでも机の上には常に讃美歌の本が載つて居て、(歌ふのは一度も聞かなかつたが)、皺くちやのフロツクコートには、小形の聖書《バイブル》が何日でも衣嚢《ポケツト》に入れてあつた。同じ教会の信者だといふハイカラな女学生が四五人、時々野村を訪ねて来た。其中の一人、脊の低い、鼻まで覆被《おつかぶ》さる程|庇髪《ひさしがみ》を
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