の間には、此年少詩人の前途に大きな星が光つてる様に思ふ人もあつた。竹山自身も亦、押へきれぬ若い憧憬《あこがれ》に胸を唆《そその》かされて、十九の秋に東京へ出た。渠が初めて選んだ宿は、かの竹藪の崖に臨んだ駿河台の下宿であつた。
某新聞の文界片信は、詩人竹山静雨が上京して駿河台に居を卜したが近々其第一詩集を編輯するさうだと報じた。
此新聞が縁になつて、野村は或日同県出の竹山が自分と同じ宿に居る事を知つた。で、渠は早速名刺を女中に持たしてやつて、竹山に交際を求めた。最初の会見は、縁側近く四つ五つ実を持つた橙《だいだい》の樹のある、竹山の室で遂げられた。
野村は或学校で支那語を修めたと云ふ事であつた。其頃も神田のさる私塾で支那語の教師をして居て、よく、皺《しわ》くちやになつたフロツクコートを、朝から晩まで着て居た。外出《でかけ》る時は屹度|中山高《ちゆうやまたか》を冠つて、象牙の犬の頭のついた洋杖《ステツキ》を、大輪に振つて歩くのが癖。
其頃、一体が不気味な顔であるけれども、まだ前科者に見せる程でもなく、ギラギラする眼にも若い光が残つて居て、言語《ことば》も今の様にぞんざい[#「ぞんざ
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