つき出したのが、或時朝早く野村の室から出て便所《はばかり》へ行つた。「信者たる所以《ゆゑん》は彼処だ!」と竹山は考へた事があつた。
渠は又、時々短かい七五調の詩を作つて竹山に見せた。讃美歌まがひの、些《ちつ》とも新らしい所のないものであつたが、それでも時として、一句二句、錐の様に胸を刺す所があつた。韻文には適《む》かぬから小説を書いて見ようと思ふと云ふのが渠《かれ》の癖で、或時其書かうとして居る小説の結構を竹山に話した事があつた。題も梗概も忘れて了つたが、肉と霊と、実際と理想と、其四辻に立つて居る男だから、主人公の名は辻|某《なにがし》とすると云つた事だけ竹山は記憶して居た。無論此小説は、渠の胸の中で書かれて、胸の中で出版されて、胸の中で非常な好評を博して、遂々《たうたう》胸の中で忘られたのだ。一体が、机の前に坐る事のない男であつた。
小説に書かうとした許りでなく、其詩に好んで題材とし、又其真摯なる時によく話題に選ぶのは、常に「肉と霊の争鬩《あらそひ》」と云ふ事であつた。肉と霊! 渠は何日でも次の様な事を云つて居た。曰く、「最初の二人が罪を得て楽園を追放《やらは》れた為に、人間が苦
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