程《よつぽど》道が融けましたねす。』
と、国訛りの、ザラザラした声で云つて、心持頭を下げると、竹山は
『早かつたですナ。』
『ハア、今日は何も珍らしい材料《たね》がありませんでした。』
と云ひ乍ら、野村は暖炉の側《わき》にあつた椅子を引ずつて来て腰を下した。古新聞を取つて性急《そそくさ》に机の塵を払つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が磨《す》れて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか訳もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚|攫《つか》んで来て、懐から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと気乗《きのり》のする材料も無かつたので、「不漁《ふれふ》だ、不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す様な気がする。両の袂を探つたが煙草が一本も残つて居ない。野村は顔を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。
編輯局は左程広くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が気持よく明るい。五尺に七尺程の粗末な椴松《とどまつ》の大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射《ひざし》が硝子の塵を白く染めて、机の上には東京
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