厭な音がして、変な臭気《にほひ》が鼻を撲《う》つ。苦い顔をして階段《はしご》を上《あが》つて、懐手をした儘耳を欹《そばだ》てて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首巻と毛羅紗《けラシヤ》の鳥打帽《とりうち》を打釘に懸けて、其手で扉《ドア》を開けて急がしく編輯局を見廻した。一月程前に来た竹山と云ふ編輯主任は、種々《いろいろ》の新聞を取散らかした中で頻《しき》りに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた広い背を此方《こつち》に向けて、暖炉《ストーブ》の傍《わき》の窓際で新着の雑誌らしいものを読んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々《ひそひそ》話合つて居て、自分が入ると急に止めた。――それが少なからず渠《かれ》の心を悩ませて居たのだ。役所廻りをして、此間《こなひだ》やつた臨時種痘の成績調やら辞令やらを写して居ながらも、四六時中《しよつちう》それが気になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。
 ホツと安堵すると妙な笑が顔に浮んだ。一足入つて、扉《ドア》を閉めて、
『今日は余
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