》が居た日には怎《どう》しても貸して呉れぬ。今日何故娘が居なかつたらう? 俺が行くと娘は何日でも俯いて了ふが、恥かしいのだ、屹度恥かしいのだと思ふと、それにしても其娘が寄席で頻りに煎餅を喰べ乍ら落語を聞いて居た事を思出す。頭に被さつた鈍い圧迫が何時しか跡なく剥げて了つて、心は上の空、野村は眉間の皺を努めて深くし乍ら、それからそれと町の女の事を胸に数へて居た。
兎角して渠は漸々《やうやう》三十行許り書いた。大儀さうに立上つて、その原稿を主任の前に出す時、我乍ら余り汚く書いたと思つた。
『目が眩む様なもんですから滅茶々々で、……』
『否《いや》、有難う。』と竹山は例《いつ》になく礼を云つたが、平日《いつも》の癖で直ぐには原稿に目もくれぬ。渠も亦|平日《いつも》の癖でそれを一寸不快に思つたが、
『あとは別に書く様な事もありませんが。』と竹山の顔色を見る。
『怎《どう》も御苦労。何なら家《うち》へ帰つて一つ汗でも取つて見給へ。大事にせんと良くないから。』
『ハア、それぢや今日だけ御免蒙りますからねす。』と云つて、出来るだけ元気の無い様に皆に挨拶して、編輯局を出た。眼をギラギラ光らして舌を出し
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