ませんので。』
『材料が無いツて、昨日と何も異動がないといふのかね?』
『え、異動がありませんでした。』
『越後米を積んで、雲海丸の入港《はひ》つたのは、昨日《きのふ》だつたか一昨日《おととひ》だつたか、野村君?』と竹山が云つた。長野が慣れるうち、取つて来た材料を話して野村が商況――と云つても小さい町だから十行二十行位のものだが――を書く事にしてあつたのだ。
『ハア、昨日の朝ですから、原田の店あたりでは輸出の豆粕が大分手打になつたらうと思ひますがねす。』
『遂《つひ》聞きませんでしたな。』と云つて、長野はきまり[#「きまり」に傍点]悪げに先づ野村を見た目を竹山に移した。
『警察の方は?』
『違警罪が唯《たつた》一つ厶いました。今書いて差上げます。』と硯箱の蓋をとる。
 野村は眉間に深い皺を寄せて、其癖|美味《うま》さうに煙草を吸つて居たが、時々頭を振つて見るけれど、些《ちつ》とも重くもなければ痛くもない。咽喉にも何の変りがなかつた。軈《やが》てまた机に就いて、成るべく厭に見える様に顔を顰蹙《しか》めたり後脳を抑へて見たりし乍ら、手帳を繰り初めたが、不図髯を捻つて居る戸川課長の顔を思出し
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