渠は漸々《やうやう》筆を執上げて、其処此処手帳を翻反《ひつくらか》へして見てから、二三行書き出した。そして又手帳を見て、書いた所を読返したが、急がしく墨を塗つて、手の中に丸めて机の下に投げた。又書いて又消した。同じ事を三度続けると、何かしら鈍い圧迫が頭脳《あたま》に起つて来て、四辺《あたり》が明るいのに自分だけ陰気な所に居る様な気がする。これも平日《いつも》の癖で、頭を右左に少し振つて見たが、重くもなければ痛くもない。二三度やつて見ても矢張同じ事だ。が、今にも頭が堪へ難い程重くなつてズクズク疼《うづ》き出す様な気がして、渠は痛くもならぬ中から顔を顰蹙《しか》めた。そして、下唇を噛み乍らまた書出した。
『支庁長が居つたかえ、野村君?』
と、突然《だしぬけ》に主筆の声が耳に入つた。
『ハア、支庁長ですか? ハア居まし……一番で行きました。』
『今朝の一番汽車か?』
『ハア、札幌の道庁へ行きましたねす。』と急がしく手帳を見て、『一番で立ちました。』
『札幌は解つてるが、……戸川課長は居るだらう?』
『ハア居ります。』
 野村は我乍ら滑稽《をかし》い程|狼狽《うろた》へたと思ふと、赫《かつ》と
前へ 次へ
全80ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング