「破船」といふことを考へた。そして渠は、濡れた巌に突伏して声を出して泣いた事があつた。……野村は一層堅く目を瞑つた。と、矢張其時の事、子供を伴れた夫婦者の乞食と一緒に、三晩続けて知人岬《しりとさき》の或|神社《やしろ》に寝た事を思出した。キイと云ふ子供の夜泣の声。垢だらけの胸を披《はだ》けて乳をやる母親は、鼻が推潰《おしつぶ》した[#「推潰《おしつぶ》した」は底本では「推漬《おしつぶ》した」]様で、土に染みた髪は異な臭気を放つて居たが、……噫、浅間しいもんだ、那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》時でも那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]気を、と思ふと其|夫《をつと》の、見るからに物凄い髭面が目に浮ぶ。心は直ぐ飛んで、遠い遠い小坂の鉱山へ行つた。物凄い髭面許りの坑夫に交つて、十日許りも坑道《しき》の中で鉱車《トロツコ》を推した事があつた。真黒な穴の口が見える。それは昇降機《エレヴエーター》を仕懸けた縦坑であつた。噫、俺はアノ穴を見る恐怖《おそろしさ》に耐へきれなくなつて、坑道の入口から少し上の、些《ちつ》と許り草があつて女郎花《をみなへし》の咲いた所に半日寝転んだ。母、生みの母、上衝《のぼせ》で眼を悪くしてる母が、アノ時|甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に恋しくなつかしく思はれたらう! 母の額に大きな痍《きず》があつた。然うだ、父親《おやぢ》が酔払つて丼を投げた時、母は左の手で……血だらけになつた母の顔が目の前に……。
 ハツとして目を開《あ》いた野村は、微かな動悸を胸に覚えて、墨磨る手が動かなくなつて居た。母! と云ふ考へが又浮ぶ。母が親《みづか》ら書く平仮名の、然も、二度三度繰返して推諒しなければ解らぬ手紙! 此間《こなひだ》返事をやつた時は、馬鹿に景気の可《い》い様な事を書いた。景気の可い様な事を書いてやつて安心さしたのに、と思つて四辺《あたり》を見た。竹山は筆の軸で軽く机を敲き乍ら、書きさしの原稿を睨んで居る。不図したら今日締切後に宣告するかも知れぬ、と云ふ疑ひが電《いなづま》の様に心を刺した。其顔面には例の痙攣《ひきつけ》が起つてピクピク顫へて居た。
 内心の断間《たえま》なき不安を表はすかの様に、ピクピク顔の肉を痙攣《ひきつ》けさせて居るのは渠《かれ》の癖であつた。色のドス黒い、光沢《つや》の消えた顔は、何方かと云へば輪廓の正しい、醜くない方であるけれども、硝子玉の様にギラギラ悪光りのする大きい眼と、キリリと結ばれる事のない唇《くちびる》とが、顔全体の調和を破つて、初めて逢つた時は前科者ぢやないかと思つたと主筆の云つた如く、何様《なにさま》物凄く不気味に見える。少し前に屈《こご》んだ中背の、齢は二十九で、髯は殆んど生えないが、六七本許りも真黒なのが頤《おとがひ》に生えて五分位に延びてる時は、其人相を一層険悪にした。
 渠が其地位に対する不安を抱き始めたのは遂《つひ》此頃の事で、以前《もと》郵便局に監視人とかを務めたといふ、主筆と同国生れの長野が、編輯助手として入つた日からであつた。今迄上島と二人で隔日に校正をやつて居た所へ、校正を一人入れるといふ竹山の話は嬉しかつたものの、逢つて見ると長野は三十の上を二つ三つ越した、牛の様な身体の、牛の様な顔をした、随分と不格好で気の利かない男であつたが、「私は木下さん(主筆)と同国の者で厶《ござ》いまして、」と云ふ挨拶を聞いた時、俺よりも確かな伝手《つて》があると思つて、先づ不快を催した。自分が唯《たつた》十五円なのに、長野の服装の自分より立派なのは、若しや俺より高く雇つたのぢやないかと云ふ疑ひを惹起《ひきおこ》したが、それは翌日になつて十三円だと知れて安堵した。が、三日目から今迄野村の分担だつた商況の材料取《たねとり》と警察廻りは長野に歩かせる事になつた。竹山は、「一日《いちんち》も早く新聞の仕事に慣れる様に、」と云つて、自分より二倍も身体の大きい長野を、手酷しく小言を云つては毎日々々|使役《こきつか》ふ。校正係なら校正だけで沢山だと野村は思つた。加之《のみならず》、渠は恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》釧路の様な狭い所では、外交は上島と自分と二人で充分だと考へて居た。時々何も材料が無かつたと云つて、遠い所は廻らずに来る癖に。
 浮世の戦ひに疲れて、一刻と雖ども安心と云ふ気持を抱いた事の無い野村は、適切《てつきり》長野を入れたのは自分を退社させる準備だと推諒した。と云ふのは、自分が時々善からぬ事をしてゐるのを、渠自身さへ稀《たま》には思返して浅間しいと思つて居たので。
 
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