渠は漸々《やうやう》筆を執上げて、其処此処手帳を翻反《ひつくらか》へして見てから、二三行書き出した。そして又手帳を見て、書いた所を読返したが、急がしく墨を塗つて、手の中に丸めて机の下に投げた。又書いて又消した。同じ事を三度続けると、何かしら鈍い圧迫が頭脳《あたま》に起つて来て、四辺《あたり》が明るいのに自分だけ陰気な所に居る様な気がする。これも平日《いつも》の癖で、頭を右左に少し振つて見たが、重くもなければ痛くもない。二三度やつて見ても矢張同じ事だ。が、今にも頭が堪へ難い程重くなつてズクズク疼《うづ》き出す様な気がして、渠は痛くもならぬ中から顔を顰蹙《しか》めた。そして、下唇を噛み乍らまた書出した。
『支庁長が居つたかえ、野村君?』
と、突然《だしぬけ》に主筆の声が耳に入つた。
『ハア、支庁長ですか? ハア居まし……一番で行きました。』
『今朝の一番汽車か?』
『ハア、札幌の道庁へ行きましたねす。』と急がしく手帳を見て、『一番で立ちました。』
『札幌は解つてるが、……戸川課長は居るだらう?』
『ハア居ります。』
 野村は我乍ら滑稽《をかし》い程|狼狽《うろた》へたと思ふと、赫《かつ》と血が上つて顔が熱《ほと》り出して、沢山の人が自分の後に立つて笑つてる様な気がするので、自暴《やけ》に乱暴な字を、五六行息つかずに書いた。
『ぢや君、先刻《さつき》の話を一応戸川に打合せて来るから。』
と竹山に云つて、主筆は室を出て行つた。「先刻の話」と云ふ語《ことば》は熱して居る野村の頭にも明瞭《はつきり》と聞えた。支庁の戸川に打合せる話なら俺の事ぢやない。ハテそれでは何の事だらうと頭を挙げたが、何故か心が臆して竹山に聞きもしなかつた。
『君は大変顔色が悪いぢやないか。』と竹山が云つた。
『ハア、怎《どう》も頭が痛くツて。』と云つて、野村は筆を擱《お》いて立つ。
『そらア良くない。』
『書いてると頭がグルグルして来ましてねす。』
と暖炉の方へ歩き出した。大袈裟に顔を顰蹙《しか》めて右の手で後脳を抑へて見せた。
『風邪でも引いたんぢやないですか?』と鷹揚に云ひ乍ら、竹山は煙草に火をつける。
『風邪かも知れませんが、……先刻支庁から出て坂を下りる時も、妙に悪寒《さむけ》がしましてねす。余程《よつぽど》温《ぬく》い日ですけれどもねす。』と云つたが、竹山の鼻から出て頤の辺まで下つて、更に頬を撫でて昇つて行く柔かな煙を見ると、モウ耐らなくなつて『何卒《どうぞ》一本。』と竹山の煙草を取つた。『咽喉も少し変だどもねす。』
『そらア良くない。大事にし給へな。何なら君、今日の材料《たね》は話して貰つて僕が書いても可いです。』
『ハア、些《ちつ》と許りですから。』
 込絡《こんがら》かつた足音が聞えて、上島と長野が連立つて入つて来た。上島は平日《いつ》にない元気で、
『愈々漁業組合が出来る事になつて、明日有志者の協議会を開くさうですな。』
と云ひ乍ら、直ぐ墨を磨り出した。
『先刻《さつき》社長が見えて其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事を云つて居た。二号|標題《みだし》で成るべく景気をつけて書いて呉れ給へ。尤も、今日は単に報道に止《とど》めて、此方《こつち》の意見は二三日待つて見て下さい。』
 長野が牛の様な身体を殷懃《いんぎん》[#「殷懃《いんぎん》」はママ]に運んで机の前に出て、
『アノ商況で厶《ござ》いますな。』と揉手をする。
『ハ、野村君は今日頭痛がするさうだから僕が聞いて書きませう。』
『イヤソノ、今日は何にも材料がありませんので。』
『材料が無いツて、昨日と何も異動がないといふのかね?』
『え、異動がありませんでした。』
『越後米を積んで、雲海丸の入港《はひ》つたのは、昨日《きのふ》だつたか一昨日《おととひ》だつたか、野村君?』と竹山が云つた。長野が慣れるうち、取つて来た材料を話して野村が商況――と云つても小さい町だから十行二十行位のものだが――を書く事にしてあつたのだ。
『ハア、昨日の朝ですから、原田の店あたりでは輸出の豆粕が大分手打になつたらうと思ひますがねす。』
『遂《つひ》聞きませんでしたな。』と云つて、長野はきまり[#「きまり」に傍点]悪げに先づ野村を見た目を竹山に移した。
『警察の方は?』
『違警罪が唯《たつた》一つ厶いました。今書いて差上げます。』と硯箱の蓋をとる。
 野村は眉間に深い皺を寄せて、其癖|美味《うま》さうに煙草を吸つて居たが、時々頭を振つて見るけれど、些《ちつ》とも重くもなければ痛くもない。咽喉にも何の変りがなかつた。軈《やが》てまた机に就いて、成るべく厭に見える様に顔を顰蹙《しか》めたり後脳を抑へて見たりし乍ら、手帳を繰り初めたが、不図髯を捻つて居る戸川課長の顔を思出し
前へ 次へ
全20ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング