病院の窓
石川啄木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)平日《いつも》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五六十枚|攫《つか》んで
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひそ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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野村良吉は平日《いつも》より少し早目に外交から帰つた。二月の中旬過《なかばすぎ》の、珍らしく寒さの緩んだ日で、街々の雪がザクザク融けかかつて来たから、指先に穴のあいた足袋が気持悪く濡れて居た。事務室に入つて、受付の広田に聞くと、同じ外勤の上島《うはしま》も長野も未だ帰つて来ないと云ふ。時計は一時十六分を示して居た。
暫時《しばらく》其処の暖炉《ストーブ》にあたつて、濡れた足袋を赤くなつて燃えて居る暖炉《ストーブ》に自暴《やけ》に擦《こす》り付けると、シユッシユッと厭な音がして、変な臭気《にほひ》が鼻を撲《う》つ。苦い顔をして階段《はしご》を上《あが》つて、懐手をした儘耳を欹《そばだ》てて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首巻と毛羅紗《けラシヤ》の鳥打帽《とりうち》を打釘に懸けて、其手で扉《ドア》を開けて急がしく編輯局を見廻した。一月程前に来た竹山と云ふ編輯主任は、種々《いろいろ》の新聞を取散らかした中で頻《しき》りに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた広い背を此方《こつち》に向けて、暖炉《ストーブ》の傍《わき》の窓際で新着の雑誌らしいものを読んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々《ひそひそ》話合つて居て、自分が入ると急に止めた。――それが少なからず渠《かれ》の心を悩ませて居たのだ。役所廻りをして、此間《こなひだ》やつた臨時種痘の成績調やら辞令やらを写して居ながらも、四六時中《しよつちう》それが気になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。
ホツと安堵すると妙な笑が顔に浮んだ。一足入つて、扉《ドア》を閉めて、
『今日は余程《よつぽど》道が融けましたねす。』
と、国訛りの、ザラザラした声で云つて、心持頭を下げると、竹山は
『早かつたですナ。』
『ハア、今日は何も珍らしい材料《たね》がありませんでした。』
と云ひ乍ら、野村は暖炉の側《わき》にあつた椅子を引ずつて来て腰を下した。古新聞を取つて性急《そそくさ》に机の塵を払つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が磨《す》れて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか訳もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚|攫《つか》んで来て、懐から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと気乗《きのり》のする材料も無かつたので、「不漁《ふれふ》だ、不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す様な気がする。両の袂を探つたが煙草が一本も残つて居ない。野村は顔を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。
編輯局は左程広くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が気持よく明るい。五尺に七尺程の粗末な椴松《とどまつ》の大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射《ひざし》が硝子の塵を白く染めて、机の上には東京やら札幌小樽やらの新聞が幾枚も幾枚も拡げたなりに散らかつて居て、恰度野村の前にある赤インキの大きな汚染《しみ》が、新らしい机だけに、胸が苛々する程|血腥《ちなまぐさ》い厭な色に見える。主筆は別に一脚の塗机を西の左の窓際に据ゑて居た。
此新聞は、昔|貧小《ちつぽけ》な週刊であつた頃から、釧路の町と共に発達して来た長い歴史を持つて居て、今では千九百何号かに達して居る。誰やらが「新聞界の桃源」と評しただけあつて、主筆と上島と野村と、唯三人でやつて居た頃は随分|暢気《のんき》なものであつたが、遠からず紙面やら販路やらを拡張すると云ふので、社屋の新築と共に竹山主任が来た。一週間許り以前に長野と云ふ男が助手といふ名で入社《はひ》つた。竹山が来ると同時に社内の空気も紙面の体裁も一新されて、野村も上島も怠ける訳にいかなくなつた。
野村は四年程以前に竹山を知つて居た。其竹山が来ると聞いた時、アノ男が何故|恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》釧路あたりまで来るのかと驚いた。と同時に、云ふに云はれぬ不安が起つて、口には出さなかつたが、悪い奴が来る事に
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