なつたもんだと思つて居た。野村は、仮令《たとへ》甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に自分に好意を持つてる人にしても、自分の過去を知つた者には顔を見られたくない経歴を持つて居た。けれども、初めて逢つた時は流石に懐しく嬉しく感じた。
 野村の聞知つた所では、此社の社長の代議士が、怎《どう》した事情の下にか知れぬけれど、或実業家から金を出さして、去年の秋小樽に新聞を起した。急造《にはかづくり》の新聞だから種々《いろん》な者が集まつたので、一月経つか経たぬに社内に紛擾《さわぎ》が持上つた。社長は何方《どつち》かと云へば因循な人であるけれど、資本|主《ぬし》から迫られて、社の創業費を六百円近く着服《ちよろまか》したと云ふ主筆初め二三の者を追出して了つた。と、怎したのか知らぬが他の者まで動き出して、編輯局に唯《たつた》一人残つた。それは竹山であつたさうな。竹山は其時一週間許りも唯一人で新聞を出して見せたのが、社長に重んぜられる原因《もと》になつて、二度目の主筆が兎角竹山を邪魔にし出した時は、自分一人の為に折角の社を騒がすのは本意で無いと云つて、誰が留めても応《き》かずに遂々《たうたう》退社の辞を草した。幸ひ此方《こつち》の社が拡張の機運に際して居たので、社長は随分と破格な自由と待遇を与へて竹山を併《つ》れて来たのだと云ふ事であつた。打見には二十七八に見える老《ふ》けた所があるけれど、実際は漸々《やうやう》二十三だと云ふ事で、髯が一本も無く、烈しい気象が眼に輝いて、少年《こども》らしい活気の溢れた、何処か恁《か》うナポレオンの肖像画に肖通つた所のある顔立で、愛想一つ云はぬけれど、口元に絶やさぬ微笑に誰でも人好《ひとずき》がする。一段二段の長い記事を字一つ消すでなく、スラスラと淀みなく綺麗な原稿を書くので、文選小僧が先づ一番先に竹山を讃めた。社長が珍重してるだけに恐ろしく筆の立つ男で、野村もそれを認めぬではないが、年が上な故《せゐ》か怎《どう》しても心から竹山に服する気にはなれぬ。酒を喰《くら》つた時などは気が大きくなつて、思切つて竹山の蔭口を叩く事もある位で、殊に此男が馴々しく話をする時は、昔の事――強ひて自分で忘れて居る昔の事を云ひ出されるかと、それは/\人知れぬ苦労をして居た。
 野村は力が抜けた様に墨を磨つて居たが、眼は凝然《ぢつ》と竹山の筆の走るのを見た儘、種々《いろん》な事が胸の中に急がしく往来して居て、さらでだに不気味な顔が一層険悪になつて居た。竹山も主筆も恰《あたか》も知らぬ人同志が同じ汽車に乗り合した様に、互にそ知らぬ態《さま》をして居る。何方《どつち》も傍に人が居ぬかの様に、見向くでもなければ一語を交すでもない。渠《かれ》は此《この》態《さま》を見て居て又候《またぞろ》不安を感じ出して来た。屹度俺の来るまでは二人で何か――俺の事を話して居たに違ひない。恁《か》うと、今朝俺の出社したのは九時半……否《いや》十時頃だつたが、それから三時間余も恁う黙つて居ると云ふ事はない。屹度話して居たのだ。不図すると俺の来る直《ぢ》き前まで……或は其時既に話が決つて了つて、恰度其処へ俺が入つたのぢやないか知ら。と、上島にも長野にも硯箱があるのに、俺ンのを使つたのは誰であらう。然うだ、此椅子も暖炉の所へ行つて居た。アレは社長の癖だ。社長が来たに違ひない。先刻《さつき》事務の広田に聞いて呉れば可《よ》かつたのにと考へたが、若しかすると、二人で相談して居た所へ社長が来て、三人になつて三人で俺の事を色々悪口し合つて、……然《さ》うだ、此事を云ひ出したのは竹山に違ひない。上島と云ふ奴酷い男だ。以前は俺と毎晩飲んで歩いた癖に、此頃は馬鹿に竹山の宿へ行く。行つて俺の事を喋つたに違ひない。好し、そんなら俺も彼奴《あいつ》の事を素破抜《すつぱぬ》いてやらう、と気が立つて来て、卑怯な奴等だ、何も然う狐鼠々々《こそこそ》相談せずと、退社しろなら退社しろと瞭《きつぱ》り云つたら可いぢやないか、と自暴糞《やけくそ》な考へを起して見たが、退社といふ辞《ことば》が我ながらムカムカしてる胸に冷水《ひやみづ》を浴せた様に心に響いた。飢餓《うゑ》と恐怖《おそれ》と困憊《つかれ》と悔恨《くい》と……真暗な洞穴《ほらあな》の中を真黒な衣を着てゾロゾロと行く乞食の群! 野村は目を瞑《つぶ》つた。
 白く波立つ海の中から、檣《ほばしら》が二本出て居る様が見える。去年の秋、渠《かれ》が初めて此釧路に来たのは、丁度竹の浦丸といふ汽船が、怎《どう》した錯誤《あやまり》からか港内に碇泊した儘沈没した時で、二本の檣《ほばしら》だけが波の上に現はれて居た。風の寒い浜辺を、飢ゑて疲れて、古袷一枚で彷徨《うろつ》き乍ら、其檣を眺むるともなく眺めて
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