考へを起す余裕もない。「今日限り!」と云ふ事だけが頭脳にも胸にも一杯になつて居て、モウ張裂けさうだ。兎毛《うのけ》一本で突く程の刺戟にも、忽ち頭蓋骨が真二つに破れさうだ。
また編輯局に入つた。竹山が唯一人、凝然《じつ》と椅子に凭れて新聞を読んで居る。一分、二分、……五分! 何といふ長い時間だらう。何といふ恐ろしい沈黙だらう。渠は腰かけても見た、立つても見た、新聞を取つても見た、火箸で暖炉の中を掻廻しても見た。窓際に行つても見た。竹山は凝然《じつ》と新聞を読んで居る。
『竹山さん。』と、遂々《たうたう》耐《こら》へきれなくなつて渠は云つた。悲し気な眼で対手を見ながら、顫ひを帯びて怖々《おづおづ》した声で。
竹山は何気なく顔を上げた。
『アノ!、一寸応接室へ行つて頂く訳に、まゐりませんでせうかねす?』
『え? 何か用ですか、秘密の?』
『ハア、其、一寸其……。』と目を落す。
『此室《ここ》にも誰も居ないが。』
『若し誰か入つて来ると……。』
『然うですか。』と竹山は立つた。
入口で竹山を先に出して、後に跟《つ》いて狭い廊下を三歩か四歩、応接室に入ると、渠は静かに扉《ドア》を閉めた。
割合に広くて、火の気一つ無い空気が水の様だ。壁も天井も純白で、真夜中に吸込んだ寒さが、指で圧してもスウと腹まで伝りさうに冷たく見える。青唐草の被帛《おほひ》をかけた円卓子《まるテイブル》が中央に、窓寄りの暖炉の周囲には、皮張りの椅子が三四脚。
竹山は先づ腰を下した。渠は卓子に左の手をかけて、立つた儘|霎時《しばらく》火の無い暖炉を見て居たが、
『甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》事件です?』
と竹山に訊かれると、忽ち目を自分の足下に落して、
『甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事件と云つて、何、其、外ぢやないんですがねす。』
『ハア。』
『アノ、』と云つたが、此時渠は不意に、自分の考へて居る事は杞憂に過ぎんのぢやないかと云ふ気がした。が『実は其、(と再《また》一寸口を噤《つぐ》んで、)私は今日限り罷めさせられるのぢやないかと思ひますが……』と云つて、妙な笑を口元に漂はしながら竹山の顔を見た。
竹山の眼には機敏な観察力が、瞬く間閃いた。『今日限り? それは又怎してです?』
『でも、』と渠は再《また》目を落した。『でも、モウお決めになつてるんぢやないかと、私は思ひますがねす。』
『僕にはまだ、何の話も無いんですがね。』
『ハア?』と云ふなり、渠は胡散臭い目付をしてチラリと対手の顔を見た。白ツぱくれてるのだとは直ぐ解つたけれど、また何処かしら、話が無いと云つて貰つたのが有難い様な気もする。
暫らく黙つて居たが、『アノ、田川さんといふ人は、今度初めて釧路へ来られたのですかねす?』
『然うです。』と云つて竹山は注意深く渠の顔色を窺つた。
『今迄何処に居た人でせうか?』
『函館の新聞に居た男です。』
『ハア。』と聞えぬ程低く云つたが、霎時《しばし》して又、『二面の方ですか、三面の方ですか?』
『何方もやる男です。筆も兎に角立つし、外交も仲々抜目のない方だし……。』
『ハア。』と再《また》低い声。『で今後《これから》は?』
『サア、それは未だ決めてないんだが、僕の考へぢやマア、遊軍と云つた様な所が可いかと思つてるがね。』
渠は心が頻りに苛々《いらいら》してるけれど、竹山の存外平気な物言ひに、取つて掛る機会《しほ》がないのだ。一分許り話は断えた。
『アノ、』と渠は再び顔をあげた。『ですけれども、アノ方が来たから私に用がなくなつたんぢやないですかねす?』
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》訳は無いでせう。僕はまだ、モ一人位入れようかと思つてる位だ。』
『ハ?』と野村は、飲込めぬと云つた様な眼付をする。
『僕は、五月の総選挙以前に六頁に拡張しようと考へてるんだが、社長初め、別段不賛成が無い様だ。過般《こなひだ》見積書も作つて見たんだがね。六頁にして、帯広のアノ新聞を買つて了つて、釧路十勝二ヶ国を勢力範囲にしようと云ふんだ。』
『ハア、然うですかねす。』
『然うなると君、帯広支社にだつて二人位記者を置かなくちやならんからな。』
渠の頭脳《あたま》は非常に混雑して来た。嗚呼、俺は罷めさせられるには違ひないんだ。だが、竹山の云つてる処も道理《もつとも》だ。成程然うなれば、まだ一人も二人も人が要る。だが、だが、ハテナ、一体社の拡張と俺と、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》関係になつてるか知ら? 六頁になつて……釧路十勝二ヶ国を……帯広に支社を置いて…
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