着た見知らぬ男が、暖炉を取囲《とりま》いて、竹山が何か調子よく話して居た。
野村が其暖炉に近づいた時、見知らぬ男が立つて礼をした。渠も直ぐ礼を返したが、少し周章気味《あわてぎみ》になつてチラリと其男を見た。二十六七の、少し吊つた眼に才気の輝いた、皮膚《はだ》滑らかに苦味走つた顔。
『これは野村新川君です。』と主筆は腰かけた儘で云つた。そして渠の方を向いて、『この方は今日から入社する事になつた田川勇介君です。』
渠は電光の如く主筆の顔を盗視《ぬすみみ》たが、大きな氷の塊にドシリと頭を撃たれた心地。
『ハア然うですか。』と挨拶はしたものゝ、総身の血が何処か一処《ひとところ》に塊《かたま》つて了つた様で、右の手と左の手が交る/″\に一度宛、発作的にビクリと動いた。色を変へた顔を上げる勇気もない。
『アノ人は面白い人でして、得意な論題でも見つかると、屹度先づ給仕を酒買にやるんです。冷酒を呷《あふ》りながら論文を書くなんか、アノ温厚《おとなし》い人格に比して怎やら奇蹟の感があるですな。』と、田川と呼ばれた男が談《かた》り出した。誰の事とも野村には解らぬが、何れ何処かの新聞に居た人の話らしい。
『然う然う、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》癖がありましたね。一体|一寸々々《ちよいちよい》奇抜な事をやり出す人なんで、書く物も然うでしたよ。恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》下らん事をと思つてると、時々素的な奴を書出すんですから。』と竹山が相槌を打つ。
『那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《ああ》いふ男は、今の時世ぢや全く珍しい。』と主筆が鷹揚に嘴を容《はさ》んだ。『アレでも若い時分は随分やつたもので、私の県で自由民権の論を唱導し出したのは、全くアノ男と何とか云ふモ一人の男なんです。学問があり演説は巧し、剰《おまけ》に金があると来てるから、宛然《まるで》火の玉の様に転げ歩いて、熱心な遊説をやつたもんだが、七八万の財産が国会開会|以前《まへ》に一文も無くなつたとか云ふ事だつた。』
『全く惜しい人です喃《なあ》、函館みたいな俗界に置くには。』と田川は至極感に打たれたと云ふ口吻《くちぶり》。
野村は遂々《たうたう》恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]話に耐《こら》へ切れなくなつて、其室を出た。事務室を下りて暖炉にあたると、受付の広田が「貴方《あんた》新しい足袋だ喃。俺ンのもモウ恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]になつた。」と自分の破けた足袋を撫でた。工場にも行つて見た。活字を選り分ける女工の手の敏捷《すばしこ》さを、解版台の傍に立つて見惚《みと》れて居ると、「貴方は気が多い方ですな。」と職長の筒井に背を叩かれた。文選の小僧共はまだ原稿が下りないので、阿弥陀※[#「鬥<亀」、第3水準1−94−30]をやつてお菓子を買はうと云ふ相談をして居て、自分を見ると、「野村さんにも加担《かた》ツて貰ふべか。」と云つた。機械場には未だ誰も来て居ない。此頃着いた許りの、新しい三十二面刷の印刷機《ロール》には、白い布が被《か》けてあつた。便所《はばかり》へ行く時小使室の前を通ると、昨日まで居た筈の、横着者の爺《おやぢ》でなく、予《かね》て噂のあつた如く代へられたと見えて、三十五六の小造りの男が頻りに洋燈掃除をして居た。嗚呼アノ爺も罷めさせられた、と思ふと、渠は云ふに云はれぬ悪寒を感じた。何処へ行つても恐ろしい怖ろしい不安が渠に跟《つ》いて来る。胸の中には絶望の声――「今度こそ真当《ほんたう》の代人《かはり》が来た。汝《きさま》の運命は今日限りだ! アト五時間だ、イヤ三時間だ、二時間だ、一時間だツ!」
上島に逢へば此消息を話して貰へる様な気がする。上島は正直な男だ、と考へて、二度目に二階へ上る時、
『上島君はまだ来ないのか、君?』
と広田に聞いて見た。
『モウ先刻《さつき》に来て先刻に出て行きましたよ。』
と答へた。然うだ、十時半だもの、俺も外交に出なけやならんのだ、と思つたが、出て行く所の話ぢやない。編輯局に入ると、主筆が椅子から立ちかけて、
『それぢや田川君、私はこれから一寸社長の宅に行きますから、君も何なら一緒に行つて顔出しゝて来たら怎《どう》です?』
『ア然うですか、ぢや何卒《どうか》伴《つ》れてつて頂きます。』
と田川も立つた。二人は出て行く。野村も直ぐ後から出て、応接室との間の狭い廊下の、突当りの窓へ行つた。モウ決つてる! 決つてる! 嗚呼俺は今日限りだ!
明日から怎《どう》しよう、何処へ行かう、などと云ふ
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