た。胸の中で「一円五十銭!」と叫ぶ。脅喝、詐偽、姦通、強姦、喰逃……二十も三十も一時に喊声をあげて頭脳《あたま》を蹂躙《ふみにじ》る。見まい、聞くまい、思出すまいと、渠は矢庭に机の上の『創世乃巻』に突伏した。それでも見える、母の顔が見える。胸の中で誰やら「貴様は罪人だ。」と叫ぶ、「警察へ行け。」と喚く。と渠は、横浜で唯《たつた》十銭持つて煙草買ひに行つた時、二度三度呼んでも、誰も店に出て来なかつたので、突然「敷島」を三つ浚《さら》つて遁げた事を思出した。渠はキリキリと歯を喰しばつた。噫、俺は一日として、俺は何処へ行つても、俺は、俺は……と思ふと、凄じい髭面が目の前に出た。それは渠が釧路へ来て泊る所のなかつた時、三晩一緒に暮した乞食だ。知人岬《しりとさき》の神社に寝た乞食だ。俺はアノ乞食の嬶を二度姦した! 乞食の嬶を、この髭面の嬶を……髭面がサツと朱を帯びた。カインの顔だ。アダムの子のカインの顔だ。何処へ逃げても御空《おそら》から大きな眼《まなこ》に睨められたカインの顔だ。土穴を掘つて隠れても大きな眼に睨められたカインの顔だ。噫、カインだ、カインだ、俺はカインだ!
俺はカインだ! と総身に力を入れて、両手に机の縁を攫んで、突然《いきなり》身を反らした。歯を喰しばつて、堅く堅く目を閉ぢて、頭が自づと後に垂れる。胸の中が掻裂《かつさ》かれる様で、スーツと深く息を吸ふと、パツと目があいた。と、空から見下す大きな眼! 洋燈の真上に径二尺、真黒な天井に円く描かれた大きな眼! 「俺はツ」と渠は声を絞つた。
「ウウ」と声がしたので、電気に打たれた様に、全身の毛を逆立てた。渠の声が高かつたので、佐久間が夢の中で唸つたのだ。渠は恐ろしき物を見る様に佐久間の寝顔を凝視《みつ》めた。眠れりとも、覚めたりともつかぬ、半ば開いた其眼! 其眼の奥から、誰かしら自分を見て居る。誰かしら自分を見て居る。…………
野村はモウ耐らなくなつて、突然立上つた。「俺は罪人だ、神様!」と心で叫んで居る。襖《からかみ》を開けたも知らぬ。長火鉢に躓《つまづ》いたも知らぬ。真暗で誰のだか解らぬが、兎に角下駄らしいものを足に突懸けて、渠は戸外へ飛出した。
西寺の横の坂を、側目《わきめ》も振らず上つて行く。胸の上に堅く組合せた拳《こぶし》の上に、冷い冷い涙が、頬を伝つてポタリポタリと落つる。「神様、神様。」と心は続け様に叫んで居る。坂の上に鋼鉄色《はがねいろ》の空を劃《かぎ》つた教会の屋根から、今しも登りかけた許りの二十日許りの月が、帽子も冠らぬ渠の頭を斜めに掠めて、後に長い長い影を曳いた。
十二時半頃であつた。
寝る前の平生《いつも》の癖で、竹山は窓を開けて、暖炉の火気に欝した室内の空気を入代へて居た。※[#「門<嗅のつくり」、99−下−14]《げき》とした夜半の街々、片割月《かたわれづき》が雪を殊更寒く見せて、波の音が遠い処でゴウゴウと鳴つて居る。
直ぐ目の下の病院の窓が一つ、パツと火光《あかり》が射して、白い窓掛《カーテン》に女の影が映つた。其影が、右に動き、左に動き、手をあげたり、屈んだり、消えて又映る。病人が悪くなつたのだらうと思つて見て居た。
と、真砂町へ抜ける四角《よつかど》から、黒い影が現れた。ブラリブラリと俛首《うなだ》れて歩いて来る。竹山は凝《じつ》と月影に透して視て居たが、怎《どう》も野村らしい。帽子も冠つて居ず、首巻も巻いて居ない。
其男は、火光の射した窓の前まで来ると、遽《には》かに足を留めた。女の影がまた瞬時《しばらく》窓掛に映つた。
男は、足音を忍ばせて、其窓に近づいた。息を殺して中を覗つてるらしい。竹山も息を殺してそれを見下して居た。
一分も経つたかと思ふと、また女の影が映つて、それが小さくなつたと見ると、ガタリと窓が鳴つた。と、男は強い弾機《ばね》に弾かれた様に、五六歩|窓側《まどぎは》を飛び退《すさ》つた。「呀ツ」と云ふ女の声が聞えて、間もなく火光がパツと消えた。窓を開けようとして、戸外《そと》の足音に驚いたものらしい。
男は、前よりも俛首《うなだ》れて、空気まで凍つた様な街路《みち》を、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町[#「洲崎町」は底本では「州崎町」]の方へ去つた。
翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ピクリピクリと痙攣が時々顔を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲労の圧迫が、重くも頭脳《あたま》に被さつて居る。胸の底の底の、ズツト底の方で、誰やら泣いて居る様な気がする。何の為に泣くとも解らないが、何《いづ》れ誰やら泣いて居る気がする。
気が抜けた様に※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》として編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を
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