。ズーツと其等を見廻す渠の顔には何時しか例の痙攣が起つて居た。
 噫《ああ》、浅間しい! 恁《か》う思ふと、渠はポカンとして眠つて居る佐久間の顔さへ見るも厭になつた。渠は膝を立直して小さい汚ない机に向つた。
 埃だらけの硯、歯磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鉄筆《ペン》に紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を紅いリボンで厚く綴ぢた、一冊の帳面がある。表紙には『創世乃巻』と気取つた字で書いて、下には稍《やや》小さく「野村|新川《しんせん》。」
 渠は直ちにそれを取つて、第一頁を披いた。
 これは渠が十日許り前に竹山の宿で夕飯を御馳走になつて、色々と詩の話などをした時思立つたので、今日病院で横山に吹聴した、其所謂六ヶ月位かかる見込だといふ長篇の詩の稿本であつた。渠は、其題の示す如く、此大叙事詩に、天地初発の暁から日一日と成された、絶大なる独一真神の事業を謳《うた》つて、アダムとイヴの追放に人類最初の悲哀の由来を叙し、其|掟《おきて》られたる永遠の運命を説いて、最後の巻には、神と人との間に、朽つる事なき梯子をかけた、耶蘇基督の出現に、人生最高の理想を歌はむとして居る。そして、先づ以て、涙の谷に落ちた人類の深き苦痛と悲哀と、その悲哀に根ざす霊魂の希望とを歌ふといふ序歌だけでも、優に二百行位になる筈なので、渠は此詩の事を考へると、話に聞いただけの(随つて左程|豪《えら》いとも面白いとも思はなかつた、)、[#「思はなかつた、)、」はママ]ダンテの『神聖喜曲《ジヴイナコメジア》』にも劣らぬと思ふので、其時は、自分が今こそ恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》釧路あたりの新聞の探訪をしてるけれど、今に見ろ、今に見ろ、と云ふ様な気になる。
[#ここから3字下げ]
嗚呼々々、太初《たいしよ》、万有《ものみな》の
いまだ象《かたち》を…………
[#ここで字下げ終わり]
と、渠は小声に抑揚《ふし》をつけて読み出した。が、書いてあるのは唯《たつた》十二三行しかないので、直ぐに読終へて了ふ。と繰返して再《また》読み出す。再読終へて再読み出す。恁うして渠は、ものの三十遍も同じ事を続けた。
 初は、余念の起るのを妨げようと、凝然《ぢつ》と眉間《みけん》に皺を寄せて苦い顔をしながら読んで居たが、十遍、二十遍と繰返してるうちに、何時しか気も落着いて来て眉が開く。渠は腕組をして、一向《ひたすら》に他の事を思ふまいと、詩の事許りに心を集めて居たが、それでも時々、ピクリピクリと痙攣《ひきつけ》が顔に現れる。
 軈《やが》て鉄筆《ペン》を取上げた。幾度か口の中で云つて見て、頭を捻つたり、眉を寄せたりしてから、「人祖この世に罪を得て、」と云ふ句を亜《つ》いで、
[#ここから3字下げ]
人の子枕す時もなし。
ああ、
[#ここで字下げ終わり]
と書いたが、此「ああ」の次が出て来ない。で、渠は思出した様に煙草に火をつけたが、不図次の句が頭脳に浮んだので、口元を歪めて幽かに笑つた。
[#ここから3字下げ]
ああ、み怒りの雲の色、
審判《さばき》の日こそ忍ばるれ。
[#ここで字下げ終わり]
と、手早く書きつけて、鉄筆《ペン》を擱いた。この後は甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》事を書けばよいのか、まだ考へて居ないのだ。で、渠は火鉢に向直つて、頭《かしら》だけ捻つて、書いただけを読返して見る。二三遍全体を読んで見て、今度は目を瞑《つぶ》つて今書いた三行を心で誦《ず》し出した。
「人の子枕す時もなし、ああみ怒り……審判《さばき》の日……。」「人の子枕す……」然うだ、実際だ。人の子は枕する時もない。人の子は枕する時もない。世界十幾億の人間、男も、女も、真実《まつたく》だ。人の子は枕する時もない。実際然うだ。寝ても不安、起きても不安! 夢の無い眠を得る人が一人でもあらうか! 金を持てば持つたで悪い事を、腹が減れば減つたで悪い事を、噫、寝てさへも、寝てさへも、実際だ、夢の中でさへも悪い事を! 夢の中でさへも俺は、噫、俺は、俺は、俺は…………
 恐ろしい苦悶が地震の様に忽ち其顔に拡がつた。それが刻一刻に深くなつて行く。瞬一瞬に烈しくなつて行く。見ろ、見ろ、人の顔ぢやない。全く人の顔ぢやない。鬼? 鬼の顔とは全くだ。種々《いろん》な事が胸に持上がつて来る。渠はそれと戦つて居る。思出すまいと戦つて居る。幾何《いくら》圧しつけても持上がる。あれもこれも持上がる。終には幾十幾百幾千の事が皆一時に持上がる。渠は一生懸命それと戦つて居る。戦つて戦つて、刻一刻に敗けて行く。瞬一瞬に敗けて行く。
「俺は親不孝者だ!」と云ふ考へが、遂に渠を征服し
前へ 次へ
全20ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング