は十一時でなくちや帰りませんの。』
 これは渠がよく遊びに行く芸者の宅《うち》で、蝶吉と小駒の二人が、「小母《をば》さん」と呼ぶ此女を雇つて万事の世話を頼んで居る。日暮から十二時過までは、何日でも此陰気な小母さんが一人此炬燵にあたつてるので、野村は時として此小母さんを何とか仕ようと思ふ事がないでもない。女は窓掛に手をかけた儘、入れとも云はず窓外《そと》を覗いてるので、渠は構はず入つて見ようとも思つたが、何分にも先刻程《さきほど》から気が悠然《ゆつたり》と寛大になつてるので、遂ぞ起した事のない「可哀さうだ。」といふ気がした。
『又来るよ。』と云ひ捨てた儘、彼は窓側《まどぎは》を離れて、「主婦《おかみ》はもう大丈夫寝たナ。」と思ひ乍ら家路へ歩き出した。
 四角《よつかど》を通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、左は高くなつた西寺《にしでら》と呼ぶ真宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突《とつつき》の端が渠の宿である。案の如く入口も窓も真暗になつて居る。渠は成るべく音のしない様に、入口の硝子戸を開けて、閉《た》てて、下駄を脱いで、上框《あがりがまち》の障子をも開けて閉てた。此室《ここ》は長火鉢の置いてある六畳間。亭主は田舎の村役場の助役をして居るので、主婦と其甥に当る十六の少年《こども》と、三人の女児《をんなのこ》とが、此室に重なり合ふ様になつて寝て居るのだが、渠は慣れて居るから、其等の顔を踏付ける事もなく、壁側《かべぎは》を伝つて奥の襖《からかみ》を開けた。
 此室《ここ》も亦六畳間で、左の隅に据ゑた小さい机の上に、赤インキやら黒インキやらで散々楽書をした紙笠の、三分心の洋燈が、螢火ほどに点つて居た。不取敢その心《しん》を捻上げると、パツと火光が発して、暗《やみ》に慣れた眼の眩しさ。天井の低い、薄汚い室の中の乱雑《だらしなさ》が一時に目に見える。ゾクゾクと寒さが背に迫るので、渠は顔を顰蹙《しか》めて、火鉢の火を啄《ほじく》つた。
 同宿の者が三人、一人は入口の横の三畳を占領してるので、渠は郵便局へ出て居る佐久間といふ若い男と共に此六畳に居るのだ。佐久間はモウ寝て居て、然も此方《こつち》へ顔を向けて眠つてるが、例の癖の、目を全然《すつかり》閉ぢずに、口も半分開けて居る。渠は、スヤスヤと眠つた安らかな其顔を眺めて、聞くともなく其寝息を聞いて居たが、何かしら怎う自分の心が冷えて行く様な気がする。此男は何時でも目も口も半分開けて寝てるが、俺も然《さ》うか知ら。俺は口だけ開けてるかも知れぬ、などと考へる。
 煙草に火をつけたが、怎《どう》したものか美味《うま》くない。気がつくとそれは「朝日」なので、袂を探して「敷島」の袋を出したが、モウ三本しか残つて居なかつた。馬鹿に喫んで了つたと思ふと、一本出して惜しさうに左の指で弄《いぢく》り乍ら、急いで先《せん》ののを、然も吸口まで焼ける程吸つて了つた。で、「敷島」に火をつけたが、それでも左程|美味《うま》くない。口が荒れて来たのかと思ふと、煙が眼に入る。渠は渋い顔をして、それを灰に突込んだ。
 眼を閉ぢずに寝るとは珍しい男だ、と考へ乍ら、また佐久間の顔を見た。すると、自分が、一生懸命「閉ぢろ、閉ぢろ。」と思つて居ると、佐久間は屹度アノ眼を閉ぢるに違ひないと云ふ気がする。で、下腹にウンと力を入れて、ギラギラする眼を恐ろしく大きくして、下唇を噛んで、佐久間の寝顔を睨め出した。寝息が段々|急《せは》しくなつて行く様な気がする。一分、二分、三分、……佐久間の眼は依然として瞬きもせず半分開いて居る。
 何だ馬鹿々々しいと気のついた時、渠は半分腰を浮かして、火鉢の縁に両腕を突張つて、我ながら恐ろしい形相《ぎやうさう》をして居た。額には汗さへ少し滲み出して居る。渠は平手でそれを拭つて腰を据ゑると、今迄顔が熱《ほて》つて居たものと見えて、血が頭からスウと下りて行く様な気がする。動悸も少ししてゐる。何だ、馬鹿々々しい、俺は怎して恁う時々、浅間しい馬鹿々々しい事をするだらうと、頻りに自分と云ふものが軽蔑される、…………
 止度もなく、自分が浅間しく思はれて来る。限りなく浅間しいものの様に思はれて来る。顔は忽ち燻《くす》んで、喉がセラセラする程胸が苛立つ。渠は此世に於て、此自蔑の念に襲れる程厭な事はない。
 と、隣室でドサリといふ物音がした。咄嗟《とつさ》の間に渠は、主婦《おかみ》が起きて来るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寝返りをしただけと見えて、立つた気色《けはひ》もせぬ。ムニヤムニヤと少年が寝言を言ふ声がする。漸《やつ》と安心すると、動悸が高く胸に打つて居る。
 処々裂けた襖、だらしなく吊下つた壁の衣服、煤ばんで雨漏の痕跡《かた》がついた天井、片隅に積んだ自分の夜具からは薄汚い古綿が喰《は》み出してる
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