て了つて、渠はそれからそれと静かに考へを廻らして居たが、第一に多少の思慮を費したのは、小宮洋服店から如何にしてモツト金を取るべきかと云ふ問題であつた。それには自分一人よりも相棒のある方が都合が可いと考へついたが、渠は其人選にアレかコレかと迷つた末、まだ何も知らぬ長野の奴を引張り込まうと決心した。
と、渠は其長野の馬鹿に気の利かぬ事を思ひ出して、一人で笑つた。それは昨日の事、奴が竹山から東京電報の翻訳を命ぜられて、唯五六通に半時間もかかつて居たが、
『ええ一寸伺ひますが、……怎《どう》もまだ慣れませんで(と申訳をしておいて、)カンカインとは怎《どう》かくんでせうか。』
『感化院さ。』と云つて竹山が字を書いて見せた。すると、
『ア然うですか。ぢやモ一つ、ええと、鎌田といふ大臣がありましたらうか? 一寸聞きなれない様ですけれど。』
『無い。』
『然うですか喃《なあ》。イヤ其、電文にはカナダとあるんですけど、金田といふ大臣は聞いた事がないから、鎌田の間違ぢやないかと思ひまして。』
『ドレ見せ給へ。』と竹山は其電報を取つて、『何だ、「加奈太《カナダ》大臣ルミユー氏」ぢやないか。今度日本へ来た加奈太政府の労働大臣さ。』
『然うですか。怎も慣れませんもので。』
これで皆が思はず笑つたので、流石に長野も恥かしくなつたと見えて、顔を真赤にしたが、今度は自分の袂を曳いて、「陸軍ケイホウのケイホウは怎う書きませう。」と小声で訊ねる、「警報さ」と書いて見せると、「然うですか、怎も有難う。」と云つたが、「何だい、何だい?」と竹山が云ふので、「陸軍ケイホウです。」と答へると、「ケイホウは刑罰の刑に法律の法だぜ。」と云ふ。俺もハツとしたが、長野は「然うですか。」と云つたきり、俺には何とも云はず、顔を赤くした儘、其教へられた通り書いて居た。すると竹山は、以後《これから》毎日東京や札幌の新聞を読めと長野に云つて、
『鎌田といふ大臣のあるか無いかは理髪店《とこや》の亭主だつて知つてるぢやないか。東京新聞を読んで居れば、刻下の問題の何であるかが解るし、翌日の議会の日程に上る法律案などは札幌小樽の新聞の電報に載つてるし、毎日新聞さへ読んでれば電報の訳せん事がない筈なんだ。昨晩だつて君、九時頃に来た電報の「北海道官有林附与問題」といふのを、君が「不用問題」と書いたつて、工場の小僧共が笑つてたよ。』
長野の真赤にした大きい顔が、霎時《しばし》渠の眼を去らないで、悠然《ゆつたり》とした笑を続けさせて居た。
それから渠は、種々《いろいろ》と竹山の事も考へて見た。竹山が折角東京へ乗込んで詩集まで出して居ながら、新聞記者などになつて北海道の隅ツこへ流れて来るには、何かしら其処に隠れた事情があるに違ひない。屹度暗い事でもして来たんだらう。然うでなければ、と考へて渠は四年前の竹山について、それかこれかと思出して見たが、一度下宿料を半金だけ入れて、残部《あと》は二三日と云つたのが、遂々《たうたう》十日も延びたので、下宿のアノ主婦が少し心配して居つた外、これぞと云ふ事も思出せなかつた。
竹山の下宿は社に近くて可い、と思ふ。すると又病院の事が心に浮ぶ。それとなき微笑《ほほゑみ》が口元に湧いて、梅野の活溌なのが喰ひつきたい程可愛く思はれる。梅野は美しい、白い。背は少し低いが……アノ真白《ましろ》な肥つた脛、と思ふと、渠の口元は益々緩んだ。医者の小野山も殆んど憎くない。不図したら彼奴も此頃では、看護婦長に飽きて梅野に目をつけてるのぢやないかとも考へたが、それでも些《ちつ》とも憎くない。梅野は美しいから人の目につく、けれども矢張|彼女《あれ》は俺のもんさ。末は怎でも今は俺のもんさ。彼女の挙動《やうす》はまだ男を知つて居ないらしいが、那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》に若く見える癖に二十二だつていふから、もう男の肌に触れてるかも知れぬ。それも構はんさ。大抵の女は、表面《うはべ》こそ処女だけれども、モウ二十歳を越すと男を知つてるから喃《なあ》。…………
十時の時計を聞くと、渠は勘定を済ませて蕎麦屋から出た。休坂を上つて釧路座の横に来ると、十日程前に十軒許り焼けた火事跡に、雪の中の所々から、真黒な柱や棟木が倒れた儘に頭を擡げて居た。白い波の中を海馬《かいば》が泳いでる様に。
少し行くと、右側のトある家の窓に火光《あかり》がさして居る。渠は其|窓側《まどぎは》へ寄つて、コツコツと硝子を叩いた、白い窓掛《カーテン》に手の影が映つて半分許り曳かれると、窓の下の炬燵《こたつ》に三十五六の蒼白い女が居る。
『蝶吉さんは未だ帰らないの?』
と優しい低い声で云つた。
『え、未だ。』と女は窓外《そと》を覗いたが、『マア野村さんですか。姐さん達
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