りを出させる。それに又渠は、其国訛りを出すと妙に言葉が穏《おとな》しく聞える様な気がするので、目上の者の前へ出ると殊更「ねす」を沢山使ふ癖があつた。
程なくして渠は辞して立つたが、竹山は別に見送りに立つでもなかつた。で、自分一人室の中央に立上ると、妙に頭から足まで竹山の鋭い眼に度《はか》られる様な心地がして、畳触りの悪い自分の足袋の、汚なくなつて穴の明いてるのが心恥《うらはづ》かしく思はれた。
戸外《そと》へ出ると、一寸病院の前で足を緩めたが、真砂町へ来るや否や、早速新しい足袋を買つて、狭い小路の奥の蕎麦屋へ上つた。
二階の四畳半許りの薄汚い室、座蒲団を持つて入つて来たのが、女中でなくて、印半纏《しるしばんてん》を着た若い男だつたので、渠は聞えぬ程に舌打をしたが、「天麩羅二つ。」と吩附《いひつけ》てやつてドシリと胡坐をかくと、不取敢急がしく足袋を穿き代へて、古いのを床の間の隅ツこの、燈光《あかり》の届かぬ暗い所へ投出した。「敷島」を出して成るべく悠然《ゆつたり》と喫ひ出したが、一分経つても、二分過ぎても、まだお誂へが来ない。と、渠は立つて行つて其古足袋を、壁の下の隅に、大きな鼠穴が明いてる所へヘシ込んで了つた。
間もなく下では何か物に驚いた声がして、続いて笑声が起つたが、渠は「敷島」を美味《うま》さうに吹かしながら、呼吸を深くして腹を凹ましたり、出したり、今日位腹を減らした事がないなどと考へて居た。
所へ階段《はしご》を上る足音がしたので、来たナと思つたから、腹の運動を止めて何気ない顔をしてると、以前の若い男が小腰を屈めて障子を明けた。
『ヘイ、これは旦那のお足袋ぢや厶いませんか? 鼠が落《おつ》こちたかと思つたら、足袋が降つて来たと云ふので、台所ぢや貴方、吃驚いたしましたんで。ヘイ、全く、怎も、ヘイ。』と妙な薄笑をし乍ら、今し方壁の鼠穴へヘシ込んだ許りの濡れた古足袋を、二つ揃へて敷居際に置いたなり、障子を閉めて狐鼠々々《こそこそ》下りて行く。
呆然として口を開いた儘聞いて居た渠は、障子が閉まると、クワツと許り上気して顔が火の出る程赤くなつた。恥辱の念と憤怒の情が、ダイナマイトでも爆発した様に、身体中の血管を破つて、突然《いきなり》立上つたが、腹が減つてるのでフラフラと蹌踉《よろめ》く。
よろめく足を踏み耐《こた》へて、室から出ると、足音荒く階段を下りて来たが、例《いつも》の女中が恰度丼を二つ載せた膳を持つて来た所で、
『オヤ。』
と尻上りに叫んで途を披いた。
『モウ要《い》らん。』と凄じく怒鳴るや否や、周章《あたふた》下駄を突懸けて、疾風の様に飛出したが、小路の入口でイヤと云ふ程電信柱に額を打付《ぶつつ》けた。後では、男女を合せて五六人の高い笑声が、ドツと許り喊《とき》の声の様に聞えた様であつた。
二町許り駆けて来ると、セイセイ呼吸が逸《はづ》んで来て、胸の動悸のみ高い。まだ忌々《いまいま》しさが残つて居たが、それも空腹《すきつぱら》には勝てず、足を緩めて、少し動悸が治まると、梅沢屋と云ふ休坂下《やすみざかした》の蕎麦屋へ入つた。
『お誂へは?』と反歯《そつぱ》の女中に問はれて、「天麩羅」と云はうとしたが、先刻の若い男の顔がチラと頭に閃いたので、
『何でも可い。』と云つて了つた。
『天麩羅に致しませうか? それとも月見なり五目なり、柏《かしは》も直ぐ出来ますが。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、その、何《ど》れでも可い。柏でも可い。』
かくて渠は、一滴の汁も残さず柏二杯を平らげたが、するとモウ心にも身体にも坐りがついて、先刻の事を考へると、我ながら滑稽《をかし》くなつて遂口に出して笑つて見る。手を叩いて更に「天麩羅二つ」と吩咐《いひつ》けた。
それも平らげて了ふと、まだ何か喰ひたい様だけれど、モウ腹が大分張つて来たので、止めた。と、眠気が催すまでに悪落着がして来て、悠然《ゆつたり》と改めて室の中を見廻したが、「敷島」と「朝日」と交代に頻《しきり》に喫ひながら、遂々《たうたう》ゴロリと横になつた。それでも、階段に女中の足音がする度、起直つて知らん振をして居たが、恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》具合にして渠は、階下《した》の時計が十時を打つまで、随分長い間此処に過した。一度、手も拍たぬのに女中が来て、「お呼びで厶いますか?」と襖を開けたが、それはモウ帰つて呉れと云ふ謎だと気が付いたけれど、悠然と落着いて了つた渠の心は、それしきの事で動くものでない。
恁許《かばか》り悠然した心地は渠の平生に全くない事であつた。顔には例の痙攣も起つて居ない。物事が凡て無造作で、心配一つあるでなく、善とか悪とか云ふ事も全く脳裡《あたま》から消え
前へ
次へ
全20ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング