…田川が此方に居るとすると俺は要らなくなるし……田川が帯広に行くと、然うすると俺も帯広にやられるか知ら……ハテナ……恁《か》うと……それはまだ後の事だが……今日は怎《どう》か知ら、今日は?……
『だがね、君。』と、稍あつてから低めた調子で竹山が云つた時、其声は渠の混雑した心に異様に響いて、「矢張今日限りだ」といふ考へが征矢《そや》の如く閃いた。
『だがね、君、僕は率直に云ふが、』と竹山は声を落して眼を外らした。『主筆には君に対して余り好い感情を有《も》つてない様な口吻が、時々見えぬでも無い。……』
ソラ来た! と思ふと、渠は冷水を浴びた様な気がして、腋の下から汗がタラタラと流れ出した。と同時に、怎やら頭の中の熱が一時|颯《さつ》と引いた様で、急に気がスツキリとする。凝《じつ》と目を据ゑて竹山を見た。
『今朝、小宮洋服店の主人が主筆ン所《とこ》へ行つたさうだがね。』
『何と云つて行きました?』と不思《おもはず》。
『サア、田川が居たから詳しい話も聞かなかつたが……。』竹山は口を噤《つぐ》んで渠の顔を見た。
『竹山さん、私は、』と哀し気な顫声《ふるひごゑ》を絞つた。『私はモウ何処へも行く所のない男です。種々《いろん》な事をやつて来ました。そして方々歩いて来ました。そして、私はモウ行く所がありません。罷めさせられると其限《それつきり》です。罷めさせられると死にます。死ぬ許りです。餓ゑて死ぬ許りです。貴君方は餓ゑた事がないでせう。嗚呼、私は何処へ行つても大きな眼《まなこ》に睨められます。眠つてる人も私を視て居ます。そして、』と云つて、ギラギラさして居た目を竹山の顔に据ゑたが、『私は、自分の職責《しごと》は忠実《まじめ》にやつてる積りです。毎日出来るだけ忠実《まじめ》にやつてる積りです。毎晩町を歩いて、材料《たね》があるかあるかと、それ許り心懸けて居ります。そして、昨夜も遅くまで、』と急に句を切つて、堅く口を結んだ。
『然う昨夜《ゆうべ》も、』と竹山は呟く様に云つたが、ニヤニヤと妙な笑を見せて、『病院の窓は、怎うでした?』
野村はタヂタヂと二三歩|後退《あとじさ》つた。噫、病院の窓! 梅野とモ一人の看護婦が、寝衣《ねまき》に着換へて淡紅色《ときいろ》の扱帯《しごき》をしてた所で、足下《あしもと》には燃える様な赤い裏を引覆《ひつくらか》へした、まだ身の温《ぬくも》りのありさうな衣服《きもの》! そして、白い脛が! 白い脛が!
見開いた眼には何も見えぬ。口は蟇《がま》の様に開けた儘、ピクリピクリと顔一体が痙攣《ひきつ》けて両側《りやうわき》で不恰好に汗を握つた拳がブルブル顫へて居る。
「神様、神様。」と、何処か心の隅の隅の、ズツと隅の方で…………。[#地から1字上げ](五月二十六日脱稿)
[#地から1字上げ]〔生前未発表・明治四十一年五月稿〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
※生前未発表、1908(明治41)年5月執筆のこの作品の本文を、底本は、土岐善麿氏所蔵啄木自筆原稿によっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、103−下−18と104−上−5の「釧路十勝二ヶ国」をのぞいて、大振りにつくっています。
※「揶揄《からか》つた」と「揄揶《からか》つて」の混在は、底本通りです。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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