間に殆んど確信されて居た。それから、其お定といふのが、或朝竹山の室の掃除に来て居て、二つ三つの戯談を云つてから、恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》話をした事があつた。
『野村さんて、余程面白い方ねえ。』
『怎《どう》して?』
『怎してツて、オホヽヽヽ。』
『可笑しい事があるもんか?』
『あのね、……駿河台に居る頃は随分だつたわ。』
『何が?』
『何がツて、時々淫売婦なんか伴れ込んで泊めたのよ。』
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事をしたのか、野村君は?』
『黙つてらつしやいよ、貴方。』と云つたが、『だけど、云つちや悪いわね。』
『マア云つて見るさ。口出しをして止すツて事があるもんか。』
『何日だつたか、あの方が九時頃に酔払つて帰つたのよ、お竹さんて人伴れて。え、其人は其時初めてよ。それも可いけど、突然《いきなり》、一緒に居た政男さん(従弟)に怒鳴りつけるんですもの、政男さんだつて怒りますわねえ。恰度空いた室があつたから、其晩だけ政男さんは其方へお寝《やす》みになつたんですけど、朝になつたら面白いのよ。』
『馬鹿な、怎したい?』
『野村さんがお金を出したら、要《い》らないつて云ふんですつて、其お竹さんと云ふ人が。そしたらね、それぢや再《また》来いツて其儘帰したんですとさ。』
『可笑しくもないぢやないか。』
『マお聞きなさいよ。そしたら其晩|再《また》来ましたの。野村さんは洋服なんか着込んでらつしやるから、見込をつけたらしいのよ。私其時取次に出たから明細《すつかり》見てやつたんですが、これ(と頭に手をやつて、)よりもモツト前髪を大きく取つた銀杏返しに結つて、衣服《きもの》は洗晒しだつたけど、可愛い顔してたのよ。尤も少し青かつたけど。』
『酷い奴だ。また泊めたのか?』
『黙つてらつしやいよ、貴方。そしたら野村さんが、鎌倉へ行つたから二三日帰らないツて云へと云ふんでせう。私可笑しくなつたから黙つて上げてやらうかと思つたんですけどね。※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐《いひつか》つた通り云ふと、穏《おとな》しく帰つたのよ。それからお主婦さんと私と二人で散々|揄揶《からか》つてやつたら、マア野村さん酷い事云つたの。』と竹山の顔を見たが、『あの女は息が臭いから駄目なんですツて。』と云ふなり、畳に突伏して転げ歩いて笑つた。
 牛込に移つてから二月許り後の事、恰度師走上旬であつたが、野村は小石川の何とか云ふ町の坂の下の家とかを、月十五円の家賃で借りて、「東京心理療院」と云ふ看板を出した。そして催眠術療法の効能を述立《のべた》てた印刷物《すりもの》を二千枚とか市中に撒いたさうな。其後二度許り竹山を訪ねて来たが、一度はモウ節季近い凩《こがらし》の吹き荒れて、灰色の雲が低く軒を掠めて飛ぶ不快な日で、野村は「患者が一人も来ない。」と云つて悄気《しよげ》返つて居た。其日は服装《なり》も見すぼらしかつたし、云ふ事も「清い」とか「美しい」とか云ふ詞《ことば》沢山の、神経質な厭世詩人みたいな事許りであつたが、珍らしくも小半日落着いて話した末、一緒に夕飯を食つて、帰りに些《ち》と許りの借りた金の申訳をして行つた。一番最後に来たのは、年が新らしくなつた四日目か五日目の事で、呂律《ろれつ》の廻らぬ程酔つて居たが、本郷に居ると許りで、詳しく住所を云はなかつた。帰りは雨が降り出したので竹山の傘を借りて行つた限《きり》、それなりに二人は四年の間殆んど思出す事もなかつたのだ。が、唯一度、それから二月か三月|以後《のち》の事だが、或日巡査が来て野村の事を詳しく調べて行つたと、下宿の主婦が話して居た事があつた。
 其四年間の渠の閲歴は知る由もない。渠自身も常に其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]話をする事を避けて居たが、それでもチヨイチヨイ口に出るもので、四年前の渠が知つてなかつた筈の土地の事が、何かの機会に話頭《わたう》に上る。静岡にも居た事があるらしく、雨の糸の木隠《こがくれ》に白い日に金閣寺を見たといふから、京都にも行つたのであらう。石井孤児院長に逢つた事があると云つて非常に敬服して居たから、岡山へも行つたらしい。取わけ竹山に想像を費さしたのは、横浜の桟橋に毎日行つて居た事があるといふ事と、其処の海員周旋屋の内幕に通暁して居た事であつた。鹿角《かづの》郡の鉱山は尾去沢も小坂もよく知つて居た。釧路へは船で来たんださうで、札幌小樽の事は知らなかつたが、此処で一月半許りも、真砂町の或蕎麦屋の出前持をして居たと云ふ事は、町で大抵の人が知つて居た。無論これは方々に職業《くち》を求めて求め兼ねた末の事であるが、或日曜
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