い」に傍点]でなく、国訛りの「ねす」を語尾につける事も無かつた。
 半月計りして其下宿屋は潰れた。公然《おもてむき》の営業は罷《や》めて、牛込は神楽坂裏の、或る閑静な所に移つて素人下宿をやるといふ事になつて、五十人近い止宿人《おきやく》の中、願はれて、又願つて、一緒に移つたのが八人あつた。野村も竹山もその中に居た。
 野村は其頃頻りに催眠術に熱中して居て、何とか云ふ有名な術者に二ヶ月もついて習つたとさへ云つて居た。竹山も時々其不思議な実験を見せられた。或時は其為に野村に対して一種の恐怖を抱いた事もあつた。
 渠は又、或教会に籍を置く基督信者《クリスチヤン》で、新教を奉じて居ながらも、時々は旧教の方が詩的で可いと云つて居た。竹山は、無論渠を真摯な信仰のある人とも思はなかつたが、それでも机の上には常に讃美歌の本が載つて居て、(歌ふのは一度も聞かなかつたが)、皺くちやのフロツクコートには、小形の聖書《バイブル》が何日でも衣嚢《ポケツト》に入れてあつた。同じ教会の信者だといふハイカラな女学生が四五人、時々野村を訪ねて来た。其中の一人、脊の低い、鼻まで覆被《おつかぶ》さる程|庇髪《ひさしがみ》をつき出したのが、或時朝早く野村の室から出て便所《はばかり》へ行つた。「信者たる所以《ゆゑん》は彼処だ!」と竹山は考へた事があつた。
 渠は又、時々短かい七五調の詩を作つて竹山に見せた。讃美歌まがひの、些《ちつ》とも新らしい所のないものであつたが、それでも時として、一句二句、錐の様に胸を刺す所があつた。韻文には適《む》かぬから小説を書いて見ようと思ふと云ふのが渠《かれ》の癖で、或時其書かうとして居る小説の結構を竹山に話した事があつた。題も梗概も忘れて了つたが、肉と霊と、実際と理想と、其四辻に立つて居る男だから、主人公の名は辻|某《なにがし》とすると云つた事だけ竹山は記憶して居た。無論此小説は、渠の胸の中で書かれて、胸の中で出版されて、胸の中で非常な好評を博して、遂々《たうたう》胸の中で忘られたのだ。一体が、机の前に坐る事のない男であつた。
 小説に書かうとした許りでなく、其詩に好んで題材とし、又其真摯なる時によく話題に選ぶのは、常に「肉と霊の争鬩《あらそひ》」と云ふ事であつた。肉と霊! 渠は何日でも次の様な事を云つて居た。曰く、「最初の二人が罪を得て楽園を追放《やらは》れた為に、人間が苦痛《くるしみ》の郷《さと》、涙の谷に住むと云ふのは可いが、そんなら何故神は、人間をして更に幾多の罪悪を犯さしめる機関、即ち肉と云ふものを人間に与へたのだらう?」又或時渠は、不意に竹山の室の障子を開けて、恐ろしいものに襲はれた様に、凄《すさまじ》い位眼を光らして、顔一体を波立つ程|苛々《いらいら》させ乍ら、「肉の叫び! 肉の叫び!」と云つて入つて来た事があつた。其頃の渠の顔は、今の様に四六時中《しよつちう》痙攣《ひきつけ》を起してる事は稀であつた。
 渠は大抵の時は煙草代にも窮してる様であつた。が、時として非常な贅沢をした。日曜に教会へ行くと云つて出て行つて、夜になるとグデングデンに酔払つて帰る事もあつた。
 竹山は毎日の様に野村と顔を合せて居たに不拘、怎したものか余り親しくはなかつた。却つて、駿河台では野村と同じ室に居て、牛込へは時々遊びに来た渠の従弟といふ青年に心を許して居たが、其青年は、頗る率直な、真摯な、冐険心に富んで、何日でもニコニコ笑つてる男であつたけれど、談|一度《ひとたび》野村の事に移ると、急に顔を曇らせて、「従兄には弱つて了ひます。」と云つて居た。
 渠は又時々、郷里《くに》にある自分の財産を親類が怎《どう》とかしたと云つて、其訴訟の手続を同宿の法学生に訊いて居た事があつた。それから、或時宿の女中の十二位なのに催眠術を施《か》けて、自分の室に閉鎖《とぢこ》めて、半時間許りも何か小声で頻《しき》りに訊ねて居た事があつた。隣室の人の洩れ聞いたんでは、何でも其財産問題に関した事であつたさうな。渠は平生、催眠術によつて過去の事は勿論、未来の事も予言させる事が出来ると云つて居た。
 竹山の親しく見た野村良吉は、大略《あらまし》前述《まへ》の様なものであつたが、渠は同宿の人の間に頗る不信用であつた。野村は女学生を蘯《たら》して弄んで、おまけに金を捲上げて居るとか、牧師の細君と怪しい関係を結んでるさうだとか、好からぬ噂のみ多い中に、お定と云つて豊橋在から来た、些と美しい女中が時々渠の室《へや》に泊るという事と、宿の主婦《おかみ》――三十二三で、細面の、眼の表情《しほ》の満干《さしひき》の烈しい、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》急がしい日でも髪をテカテカさして居る主婦と、余程前から通じて居るといふ事は、人々の
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