い。……』
 ソラ來た! と思ふと、渠は冷水を浴びた樣な氣がして、腋の下から汗がタラタラと流れだした。と同時に、怎やら頭の中の熱が一時に颯と引いた樣で、急に氣がスッキリとする。凝と目を据ゑて竹山を見た。
『今朝、小宮洋服店の主人が主筆ン所《とこ》へ行つたさうだがね。』
『何と云つて行きました?』不思《おもはず》。
『サア、田川が居たから詳しい話も聞かなかつたが……。』
 竹山は口を噤んで渠の顏を見た。
『竹山さん、私は、』と哀し氣な顫聲を絞つた。『私はモウ何處へも行く所のない男です。種々の事をやつて來ました。そして方々歩いて來ました。そして私はモウ行く所がありません。罷めさせられると其限《それきり》です。罷《や》めさせられると死にます。死ぬ許りです。餓ゑて死ぬ許りです。貴君方は餓ゑた事がないでせう。嗚呼、私は何處へ行つても大きな眼に睨められます。眠つてる人も私を視て居ます。そして、』と云つて、ギラギラさして居た目を竹山の顏に据ゑたが、『私は、自分の職責《しごと》は忠實《まじめ》にやつてる積りです。毎日出來るだけ忠實《まじめ》にやつてる積りです。毎晩町を歩いて、材料があるかあるかと、それ
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