自分を見ると「野村さんにも加擔《かた》ツて貰ふべか。」と云つた。機械場には未だ誰も來て居ない。此頃着いた許りの、新しい三十二面刷の印刷機《ロール》には、白い布が被けてあつた。便所へ行く時小使室の前を通ると、昨日まで居た筈の、横着者の爺でなく[#「でなく」は底本では「なでく」]、豫て噂のあつた如く代へられたと見えて、三十五六の小造の男が頻りに洋燈《ランプ》掃除をして居た。嗚呼アノ爺も罷《や》めさせられた、と思ふと、渠は云ふに云はれぬ惡氣《さむけ》を感じた。何處へ行つても恐ろしい怖ろしい不安が渠に踉《つ》いて來る。胸の中には絶望の聲――「今度こそ眞當《ほんたう》の代人《かはり》が來た。汝《きさま》の運命は今日限りだ! アト五時間だ、イヤ三時間だ、二時間だ、一時間だツ!」
上島に逢へば此消息を話して貰へる樣な氣がする。上島は正直な男だ、と考へて、二度目に二階へ上る時、
『上島君はまだ來ないのか、君!』
と廣田に聞いて見た。
『モウ先刻《さつき》に來て先刻に出て行きましたよ。』
と答へた。然うだ、十時半だもの、俺も外交に出なけやならんのだが、と思つたが、出て行く所の話ぢやない、編輯局に入ると
前へ
次へ
全78ページ中70ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング