もなければ一語を交すでもない。彼は此態を見て居て又|候《ぞろ》不安を感じ出して來た。屹度俺の來るまでは二人で何か――俺の事を話して居たに違ひない。恁《か》うと、今朝俺の出社したのは九時半……否十時頃だつたが、それから三時間餘も恁う默つて居ると云ふ事はない。屹度話して居たのだ。不圖すると俺の來る直き前まで……或は其時既に話が決つて了つて、恰度其處へ俺が入つたのぢやないか知ら。と、上島にも長野にも硯箱があるのに、俺ンのを使つたのは誰であらう。然うだ、此椅子も煖爐の所へ行つて居た。アレは社長の癖だ。社長が來たに違ひない。先刻事務の廣田に聞いてくれば可かつたのにと考へたが、若しかすると、二人で相談して居た所へ社長が來て、三人になつて三人で俺の事を色々惡口し合つて……然うだ、此事を云ひ出したのは竹山に違ひない。上島と云ふ奴|酷《ひど》い男だ。以前は俺と毎晩飮んで歩いた癖に、此頃は馬鹿に竹山の宿へ行く。行つて俺の事を喋つたに違ひない。好し、そんなら俺も彼奴《あいつ》の事を素破拔《すつぱぬ》いてやらう、と氣が立つて來て、卑怯な奴等だ、何も然う狐鼠狐鼠《こそこそ》相談せずと、退社しろなら退社しろと瞭《
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