《みぞおち》の所に重ねて、懷に入れておいた手で、襯衣《シヤツ》の上からズウと下腹まで摩つて見たが、米一粒入つて居ぬ程凹んで居る。彼はモウ一刻も耐らぬ程食慾を催して來た。それも其筈、今朝九時頃に朝飯を食つてから、夕方に小野山の室で酒を飮んで鯣の焙《あぶ》つたのを舐《しやぶ》つた限《きり》なのだ。 
 淺間しい事ではあるが、然しこれは渠にとつて今日に限つた事でなかつた。渠は米町裏のトある寺の前の素人下宿に宿つて居るけれど、モウ二月越下宿料を一文も入れてないので、五分と顏を見てさへ居れば、直ぐそれを云ひ出す宿の主婦の面が厭で、起きて朝飯を食ふと飛び出した儘、晝飯は無論食はず、社から退《ひ》けても宿へ歸らずに、夕飯にあり附きさうな家を訪ね※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]る。でなければ、例の新聞記者と肩書を入れた名刺を振※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して、斷られるまでは蕎麥屋牛鍋屋の借食をする。それも近頃では殆ど八方塞がりになつたので、少しの機會も逸さずに金を得る事許り考へて居るが、若し怎しても夕飯に有附けぬとなると、渠は何處かの家に坐り込んで、宿の主婦の寢
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