て了ふ十時十一時まで、用もない茶呑談《ちやのみばなし》を人の迷惑とも思はぬ。十五圓の俸給は何處に怎使つて了ふのか、時として二圓五十錢といふ疊附の下駄を穿いたり、馬鹿に派手な羽織の紐を買つたりするのは人の目にも見えるけれど、殘餘《あと》が怎なるかは、恐らく渠自身でも知つて居まい。
 餓えた時程人の智《かしこ》くなる時はない。渠は力の拔けた足を急がせて、支廳坂を下りきつたが、左に曲ると兩側の軒燈《ともしび》明るい眞砂町の通衢《とほり》、二町許りで、トある角に立つた新築の旅館の前まで來ると、渠は遽かに足を緩めて、十五六間が程を二三度行きつ戻りつして居たが、先方《むかう》から來た外套の頭巾の目深い男を遣過すと、不圖|後前《あとさき》を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して、ツイと許り其旅館の隣家の軒下に進んだ。硝子戸が六枚、其内側に吊した白木綿の垂帛《カーテン》に洋燈《ランプ》の光が映えて、廂の上の大きなペンキ塗りの看板には、「小宮洋服店」と書いてあつた。
 渠は突然《いきなり》其硝子戸を開けて、腰を屈めて白木綿を潜つたが、左の肩を上げた其影法師が、二分間許りも明瞭《くつきり
前へ 次へ
全78ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング