たが、恐ろしい力が籠つて居た。女は眼を圓くして渠を仰いだが、何とも云はぬ。
『僕の胸の中を察して下さい。』と、さも情に迫つた樣な聲を出して、堅く握つた女の腕を力委せに引寄せたと思ふと、酒臭い息が女の顏に亂れて、一方の手が肩に掛る。梅野は敏捷《すばや》く其手を擦り拔けて卓子《テーブル》の彼方へ逃げた。
 二人は小さい卓子《テーブル》を相隔てゝ向ひ合つた。渠は、右から、左から、再び女を捉へようと焦慮《あせ》るけれど、女は其度男と反對の方へ動く、妙に落着拂つた其顏が、着て居る職服《きもの》と見分けがつかぬ程眞白に見えて、明確《さだか》ならぬ顏立の中に、瞬きもせぬ一双の眼だけが遠い空の星の樣。其顏と柔かな肩の辷りが廓然《くつきり》と白い輪廓を作つて、仄暗い藥の香の中に浮んで、右に左に動くのは、女でもない、人でもない、影でもなければ、幻でもない。若樹の櫻が時ならぬ雪の衣を着て、雪の重みに堪へかねて、ユラリユラリと搖れるのだ、ユラリユラリと動くのだ。が、野村の眼からは、唯モウ抱けば温かな柔かな、梅野でも誰でもない、推せば火が出る樣な女の肉體だけが見える。
 何分經つたか記憶が無い。その間に渠の頭腦
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