大事にせんと良くないから。』
『ハア、それぢや今日だけ御免蒙りますからねす。』と云つて、出來るだけ元氣の無い樣に皆に挨拶して、編輯局を出た。眼をギラギラ光らして舌を出し乍ら、垢づいた首卷を卷いて居たが、階段を降りる時は再《また》顏を顰蹙《しか》めて、些と時計を見上げたなり、事務の人々には言葉もかけず戸外《そと》へ出て了つた。と、鈍い歩調《あしどり》で二三十歩、俛首《うなだ》れて歩いて居たが、四角《よつかど》を右に曲つて、振顧《ふりかへ》つてモウ社が見えない所に來ると、渠は遽かに顏を上げて、融けかかつたザクザクの雪を蹴散し乍ら、勢ひよく足を急がせて、二町の先に二階の見ゆる共立病院へ……
 解雇される心配も、血だらけな母の顏も、鈍い壓迫と共に消え去つて、勝誇つた樣な腥《なまぐさ》い笑が其顏に漲つて居た

 四年以前、野村が初めて竹山を知つたのは、まだ東京に居た時分の事で、其頃渠は駿河臺のとある竹藪の崖に臨んだ、可成な下宿屋の離室《はなれ》にゐた。
 今でも記憶《おぼ》えて居る人があるか知れぬが、其頃竹山は詩里に居ながら、毎月二種か三種の東京の雜誌に詩を出して居て、若々しい感情を拘束もなく華
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