、と考へる。それは洲崎町のとある角の、渠が何日でも寄る煙草屋の事で、モウ大分借が溜つてるから、すぐ顏を赤くする銀杏返しの娘が店に居れば格別、口喧《くちやかま》しやの老母《ばばあ》が居た日には怎《どう》しても貸して呉れぬ。今日何故娘が居なかつたらう? 俺が行くと娘は何時でも俯向いて了ふが、恥かしいのだ、屹度恥かしいのだと思ふと、それにしても其娘が寄席で頻りに煎餅を喰べ乍ら落語を聞いて居た事を思出す。頭に被《かぶ》さつた鈍い壓迫が何時しか跡なく剥げて了つて、心は上の空、野村は眉間の皺を努めて深くし乍ら、それからそれと町の女の事を胸に數へて居た。
兎角して渠は漸々《やう/\》三十行許り書いた。大儀さうに立上つて、其原稿を主任の前に出す時、我乍ら餘り汚く書いたと思つた。
『目が眩む樣なもんですから滅茶々々で、……』
『否《いや》、有難う。』と竹山は例になく禮を云つたが、平日《いつも》の癖で直ぐには原稿に目もくれぬ。渠も亦|平日《いつも》の癖でそれを一寸不快に思つたが、
『あとは別に書く樣な事もございませんが。』と竹山の顏を見る。
『怎《どう》も御苦勞、何なら家へ歸つて一つ汗でも取つて見給へ。
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