、如何に声を大きくして叫んだとて、矢張駄目なんだね。それよりは、年の若い女といふものは比較的感化し易い、年若い女に教へる女学校が、乃ち僕等の先づ第一に占領すべき城だと考へたね。若い女を改造するのだ。改造された女が、妻となり母となる。家庭の女王となる、……なるだらう、必ず。詰り唯一人の女を救ふのが、其家庭を改造し、其家庭の属する社会を幾分なりとも改造することが出来る訳なんだ。僕は然思ツたから、勇んで三十五円の月給を頂戴する女学校の教師になツたんだ。』
『なツて見たら、燐寸箱《マツチばこ》の様だらう。学校といふものは。』
『燐寸箱! 然だ、燐寸箱だよ、全たく。狭くて、狭くて、全然《まるで》身動きがならん。蚤だつて君、自由に跳ねられやせんのだ。一寸何分と長《たけ》の定《きま》ツた奴許りが、ギツシリとつめ込んである。僕の様なもんでも、今迄何回反逆を企てたか解らん。反逆といツても、君の様に痛快な事は自分一人ぢや出来んので、詰り潔く身を退く位のものだね。ところが、これでも多少は生徒間に信用もあるので、僕が去ると生徒まで動きやしないかといふ心配があるんだ。そこが私立学校の弱点《よわみ》なんだね。だから怎《どう》しても僕の要求を聴いてくれん。様々な事をいツて留めるんだ。留められて見ると妙なもんで、遂また留まツて行《や》ツて見ようといふ様な気にもなる。と謂ツた訳でグズ/\此三年を過したんだが、考へて見れや其間に自分のした事は一つもない。初めは、新聞記者上りといふので特別の注目をひいたもんだが、今ぢやそれすら忘られて了ツた。平凡と俗悪の中に居て、人から注意を享けぬとなツては、もう駄目だね。朝に下宿を出る時は希望もあり、勇気もある。然しそれも職員室の扉《どあ》を開けるまでの事だ。一度其中へ這入ツたら、何ともいへぬ不快が忽ちにこみ上げてくる。何の顔を見ても、鹿爪らしい、横平な、円《まろ》みのない、陰気で俗悪な、疲れた様な、謂はば教員臭い顔ばかりなんぢやないか。奴等の顔を見ると、僕は恁《か》う妙に反抗心が昂まツて来て、見るもの聞くもの、何でも皆頭から茶化して見たい様な気持になるんだ。』
『茶化す?』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、真面目になツて怒鳴る元気も出ないやね。だから思ふ存分茶化してやるんだ。殊に君、女教員と来ちや全然《まるで》箸にも棒にもかかツたもんぢやない。犬だか猫だか、雀だか烏だか、……兎も角彼等が既に女でないだけは事実だね。女でなくなツたんだから人間でもないんだ。謂はば一種の厭ふべき変性動物に過ぎんのだね。……それで生徒は怎《どう》かといふに、情無いもんだよ君、白い蓮華の蕾の様な筈の、十四十五といふ少女《こども》でさへ、早く世の中の風に染ツて、自己を偽ることを何とも思はん様になツて居る。僕は時々泣きたくなツたね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]、解る、解る。』
『然し、何だよ、君が故郷で教鞭を採る様になツてからの手紙には、僕は非常に励まされた事がある。嘗ては自らナポレオンを以て任じた君が、月給八円の代用教員になつたのでさへ一つの教訓だ。況《ま》してそれが、朝は未明から朝読、夜は夜で十一時過ぎまでも小児等と一緒に居て、出来るだけ多くの時間を小児等のために費すのが満足だと謂ふのだから、宛然《まるで》僕の平生の理想が君によつて実行された様な気がしたよ。あれや確か去年の秋の手紙だツたね、文句は僕がよく暗記して居る、そら、「僕は読書を教へ、習字を教へ、算術を教へ、修身のお話もするが、然し僕の教へて居るのは蓋《けだ》し之等ではないだらうと思はれる。何を教へて居るのか、自分にも明瞭《はつきり》解らぬ。解らぬが、然し何物かを教へて居る。朝起きるから夜枕につくまで、一生懸命になツて其何物かを教へて居る。」と書いてあツたね。それだ、それだ。完《まつ》たくそれだ、其何物かだよ。』
『噫、君、僕は怎《どう》も様々思出されるよ。……だが、何だらうね、僕の居たのは田舎だツたから多少我儘も通せたやうなものの、恁《かう》いふ都会めいた場所《ところ》では、矢張駄目だらうね。僕の一睨みですくんで了ふやうな校長も居まいからね。』
『駄目だ、実際駄目だよ。だから僕の所謂《いはゆる》改造なんていふ漸進主義は、まだるツこく効果《ききめ》が無いのかも知れんね。僕も時々|然《さう》思ふ事があるよ。「明朝午前八時を期し、予は一切の責任を負ふ決心にてストライキを断行す。」といふ君の葉書を読んだ時は、僕は君、躍り上ツたね。改造なんて駄目だ。破壊に限る。破壊した跡の焼野には、君、必ず新しい勢ひの可《い》い草が生えるよ。僕はね。宛然《まるで》自分が革命でも起した様な気で、大威張で局へ行ツて、「サカンニヤレ」といふ那《あ》の電報を打ツたんだ。』
 肇さんは俯向いて居て、暫し黙して居たが、
『ストライキか。アハハヽヽヽ。』と突然大きな声を出して笑ツた。大きな声ではあツたが、然し何処か淋しい声であツた。
『昨夜《ゆうべ》君が帰ツてから、僕は怎《どう》しても眠れなかツた。』と楠野君の声は沈む。『一体村民の中に、一人でも君の心を解してる奴があツたのかい。』
『不思議にも唯一人、君に話した役場の老助役よ。』
『血あり涙あるを口癖にいふ老壮士か。』
『然《さう》だ。僕が四月の初めに辞表を出した時、村教育の前途を奈何《いかん》と謂ツて、涙を揮ツて留めたのも彼、それならばといツて僕の提出した条件に、先づ第一に賛成したのも彼。其条件が遂に行はれずして、僕が最後の通告を諸方へ飛ばし、自ら令を下して全校の生徒を休学せしめた時から、予定の如く免職になり、飄然として故郷の山河を後にした時まで、始終僕の心を解して居てくれたのは、実に唯彼の老助役一人だツたのだ。所謂知己だね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、それや知己だね。……知己には知己だが、唯一人の知己だね。』
『怎《どう》して二人と無いもんだらう。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。……。』
『一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人、噫《ああ》。』と、肇さんは順々に指を伏せて見たが、
『君。』と強く謂ツて、其手でザクリと砂を攫んだ。『僕も泣くことがあるよ。』と声を落す。
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。』
『夜の九時に青森に着いて、直ぐ船に乗ツたが、翌朝《よくあさ》でなけれや立たんといふ。僕は一人甲板に寝て、厭な一夜《ひとよ》を明かしたよ。』
『……………………。』
『感慨無量だツたね。……真黒な雲の間から時々|片破月《かたわれづき》の顔を出すのが、恰度やつれた母の顔の様ぢやないか。……母を思へば今でも泣きたくなるが。……終《しまひ》にや山も川も人間の顔もゴチヤ交ぜになつて、胸の中が宛然《まるで》、火事と洪水と一緒になツた様だ。……僕は一晩泣いたよ、枕にして居た帆綱の束に噛りついて泣いたよ。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]』
『海の水は黒かツた。』
『黒かツたか。噫。黒かツたか。』と謂つて、楠野君は大きい涙を砂に落した。『それや不可《いかん》。止せ、後藤君。自殺は弱い奴等のする事《こつ》た。……死ぬまで行《や》れ。否《いや》、殺されるまでだ。……』
『だから僕は生きてるぢやないか。』
『噫。』
『死ぬのは不可《いかん》が、泣くだけなら可《いい》だらう。』
『僕も泣くよ。』
『涙の味は苦いね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。』
『実に苦いね。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。』
『恋の涙は甘いだらうか。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。』
『世の中にや、味の無い涙もあるよ。屹度あるよ。』

     三

『君の顔を見ると、怎《どう》したもんだか僕あ気が沈む。奇妙なもんだね。敵の真中に居れや元気がよくて、味方と二人ツ限《きり》になると、泣きたくなツたりして。』
 肇さんは恁《かう》云ツて、温和《おとなし》い微笑を浮かべ乍ら、楠野君の顔を覗き込んだ。
『僕も然だよ。日頃はこれでも仲々意気の盛んな方なんだが、昨夜《ゆふべ》君と逢ツてからといふもの、怎したもんか意気地の無い事を謂ひたくなる。』
『一体|何方《どつち》が先に弱い音を吹いたんだい。』
『君でもなかツた様だね。』
『君でもなかツた様だね。』
『何方でも無いのか。』
『何方でも無いんだ。ハハヽヽヽヽ。』と笑つたが、『胸に絃があるんだよ。君にも、僕にも。』
『これだね。』と云ツて、楠野君は礑《はた》と手を拍つ。
『然だ、同《おんな》じ風に吹かれて一緒に鳴り出したんだ。』
 二人は声を合せて元気よく笑ツた。
『兎も角|壮《さか》んにやらうや。』と楠野君は胸を張る。
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。やるとも。』
『僕は少し考へた事もあるんだ。怎せ君は、まあ此処に腰を据ゑるんだらう。』
『喰ひ詰めるまで置いて貰はう。』
『お母さんを呼ばう。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。呼ばう。』
『呼んだら来るだらう。』
『来てから何を喰はせる。』
『那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》心配は不要《いらん》よ。』
『不要《いらない》こともない。僕の心配は天下にそれ一つだ。今まで八円ぢや仲々喰へなかツたからね。』
『大丈夫だよ。那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は。』
『然《さう》かえ。』
『まあ僕に委せるさ。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]、委せよう。』
『忠志君の話の方が駄目にしても、何か必ず見付かるよ。』
『然か。』
『君は英語が巧い筈だツけね。』
『筈には筈だツけが、今は怎だかな。』
『まあ可さ。但し当分は先づ食ツて行けるだけでも、仕方がないから辛抱するさ。』
『委せたんだから、君が可い様にしてくれるさ。』
『秋まで辛抱してくれ給へ。そしたら何か必ず行《や》らう、ね君。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。やるとも。』と云ツて、肇さんは復仰向になつた。
 会話《はなし》が断《き》れると、浪の音が急に高くなる。楠野君は俄かに思出したと云ツた様に、一寸時計を出して見たが、
『あ、もう十二時が遂《とう》に過ぎて居る。』と云ツて、少し頭を拈《ひね》ツて居たが、『怎だ君、今夜少し飲まうぢやないか。』
『酒をか?』
『これでも酒の味位は知ツてるぞ。』
『それぢや今は教会にも行かんだらう。』
『無論。……解放したんだ。』
『教会から信仰を。』
『一切の虚偽の中から自己をだ。』
『自己を! フム、其自己を、世の中から解放して了ふことが出来んだらうか。』
『世の中から?』
『然だ、世の中から辞職するんだ。』
『フム、君は其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に死といふことを慕ふのかね。……だが、まあ兎に角今夜は飲まうや。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]。飲まう。』
『幾杯《いくら》飲める?』
『幾杯でも飲めるが、三杯《みつつ》やれば真赤になる。』
『弱いんだね。』
『オイ君、函館にも芸妓《げいしや》が居るか。』
『居るとも。』
『矢張《やつぱり》黒文字ツて云ふだらうか。』
『黒文字とは何だい。』
『ハハア、君は黒文字の趣味を知らんのだね。』
『何だ、其黒文字とは?』
『小楊枝のこツた。』
『小楊枝が怎したと云ふンだ。』
『黒文字ツて出すんださうだ。』
『小楊枝をか?』
『然さ、クドイ男だ喃。』
『だツて解らんぢやないか。』
『解ツてるよ、芸妓が黒文字ツて小楊枝を客の前に出すんだ。』
『だからさ、それに何処に趣味があるんだ。』
『楊枝入は錦かなんかの、素的に綺麗なものなさうだ。それを帯の間から引張り出して、二本指で、一寸《ちよい》と隅の所を拈ると、楊枝入の口へ楊枝が扇形に頭を並べて出すんださうだ。其楊枝が君、普通《あたりまへ》の奴より二倍位長いさう
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