だぜ。』
『出す時黒文字ツて云ふんだね。』
『さうだ。』
『面白いことを云ふね。』
『面白いだらう。』
『何処で那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》ことを覚えたんだ?』
『役場の書記から聞いた。』
『ハハア、兎も角今夜は飲まうよ。』

     四

『怎《どう》だ、ソロソロ帰るとしよう。』と云ツて、楠野君は傍らに投げ出してあツた風呂敷を引張り寄せた。風呂敷の中から、大きな夏蜜柑が一つ輾《ころ》げ出す。『アまだ一つ残ツて居たツた。』
『僕はまだ帰らないよ。君先きに行ツて呉れ給へ。』
『一緒に行かうや。一人なら路も解るまい。』
『大丈夫だよ。』
『だツて十二時が過ぎて了ツたぢやないか。』
『腹が減ツたら帰ツてゆくよ。』
『さうか。』と云ツたが、楠野君はまだ何となく危む様子。
『大丈夫だといふに。……緩《ゆつ》くり昼寝でもしてゆくから、構はず帰り給へ。』
『そんなら余り遅くならんうちに帰り給へ。今夜は僕の方で誘ひに行くよ。』
 古洋服を着た楠野君の後姿が、先刻《さつき》忠志君の行ツたと同じ浪打際を、段々遠ざかツてゆく。肇さんは起き上ツて、凝然《じつ》と其友の後姿を見送ツて居たが、浪の音と磯の香に犇々《ひしひし》と身を包まれて、寂しい様な、自由になツた様な、何とも云へぬ気持になツて、いひ知らず涙ぐんだ。不図、先刻の三台の荷馬車を思出したが、今は既に影も見えない。此処まで来たとは気が付かなかツたから、多分浪打際を離れて町へ這入ツて行ツたのであらう。一彎の長汀ただ寂莫として、砕くる浪の咆哮が、容赦もなく人の心を劈《つん》ざく。黒一点の楠野君の姿さへ、見る程に見る程に遠ざかツて行く。肇さんの頭は低く垂れた。垂れた頭を起すまいとする様に、灰色の雲が重々しく圧へつける。[#地から2字上げ](未完)
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〔(一)[#「(一)」は縦中横]は「紅苜蓿」明治四十年七月号、(二)[#「(二)」は縦中横]〜(四)[#「(四)」は縦中横]は生前未発表・明治四十年八月稿〕
[#ここで字下げ終わり]



底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
   1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
   1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
初出:(一)「紅苜蓿 第七冊」
   1907(明治40)年7月号
※生前未発表、1907(明治40)年8月執筆の(二)〜(四)の本文を、底本は、市立函館図書館保管自筆原稿「金字塔」によっています。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2008年8月8日作成
2009年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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