漂泊
石川啄木
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)立待崎《たちまちさき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何|憚《はばか》らず
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ピリ/\と
−−
一
曇ツた日だ。
立待崎《たちまちさき》から汐首《しほくび》の岬《みさき》まで、諸手《もろて》を拡げて海を抱いた七里の砂浜には、荒々しい磯の香りが、何|憚《はばか》らず北国《ほくこく》の強い空気に漲ツて居る。空一面に渋い顔を開いて、遙かに遙かに地球の表面《おもて》を圧して居る灰色の雲の下には、圧せられてたまるものかと云はぬ許りに、劫初《ごふしよ》の儘《まま》の碧海《あをうみ》が、底知れぬ胸の動揺《ゆるぎ》の浪をあげて居る。右も左も見る限り、塩を含んだ荒砂は、冷たい浪の洗ふに委せて、此処は拾ふべき貝殻のあるでもなければ、もとより貝拾ふ少女子《をとめご》が、素足に絡む赤の裳《も》の艶立《えんだ》つ姿は見る由もない。夜半の満潮に打上げられた海藻の、重く湿ツた死骸《しにがら》が処々に散らばツて、さも力無げに逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《のたく》つて居る許り。
時は今五月の半ば。五月といへば、此処《ここ》北海の浦々でさへ、日は暖かに、風も柔らいで、降る雨は春の雨、濡れて喜ぶ燕の歌は聞えずとも、梅桃桜ひと時に、花を被《かづ》かぬ枝もなく、家に居る人も、晴衣して花の下《もと》ゆく子も、おしなべて老も若きも、花の香に酔ひ、人の香に酔ひ、酔心地おぼえぬは無いといふ、天が下の楽しい月と相場が定ツて居るのに、さりとは恁《か》うした日もあるものかと、怪まれる許りな此荒磯の寂寞を、寄せては寄する白浪の、魂の台までも揺がしさうな響きのみが、絶間もなく破ツて居る。函館に来て、林なす港の船の檣《ほばしら》を見、店美しい街々の賑ひを見ただけの人は、いかに裏浜とはいひ乍ら、大森浜の人気無さの恁許《かばか》りであらうとは、よも想ふまい。ものの五町とも距たらぬのだが、齷齪《あくせく》と糧を争ふ十万の市民の、我を忘れた血声の喧囂《さけび》さへ、浪の響に消されてか、敢て此処までは伝はツて来ぬ。――これ然し、怪むべきでないかも知れぬ、自然の大なる声に呑まれてゆく人の声の果敢《はか》なさを思へば。
浪打際に三人の男が居る。男共の背後《うしろ》には、腐《あざ》れた象の皮を被ツた様な、傾斜の緩い砂山が、恰《あたか》も「俺が生きて居るか、死んで居るか、誰も知るまい、俺も知らぬ。」と云ふ様に、唯無感覚に横はツて居る。無感覚に投げ出した砂山の足を、浪は白歯をむいて撓まず噛んで居る。幾何《いくら》噛まれても、砂山は痛いとも云はぬ、動きもせぬ。痛いとも云はず、動きもせぬが、浪は矢張根気よく撓まず噛んで懸《かか》る。太初《はじめ》から「生命」を知らぬ砂山と、無窮に醒めて眠らぬ潮騒《しほざゐ》の海との間に、三人の――生れたり死んだりする三人の男が居る。インバネスを着て、薄鼠色の中折を左の手に持ツて、螽《ばつた》の如く蹲《しやが》んで居る男と、大分埃を吸ツた古洋服の釦は皆|脱《はづ》して、蟇《ひき》の如く胡坐《あぐら》をかいた男とは、少し間を隔てて、共に海に向ツて居る。褶《しわ》くちやになツた大島染の袷を着た、モ一人の男は、両手を枕に、足は海の方へ投げ出して、不作法にも二人の中央《まんなか》に仰向になツて臥て居る。
千里万里の沖から吹いて来て、この、扮装《なり》も違へば姿態《ふり》も違ふ三人を、皆一様に吹きつける海の風には、色もなければ、心もない。風は風で、勝手に吹く。人間は人間で、勝手なことを考へる。同じ人間で、風に吹かれ乍ら、三人は又三人で、勝手な所を見て勝手なことを考へて居る。
仰向の男は、空一面に彌漫《はびこ》つて動かぬ灰雲の真中を、黙つて瞶《みつ》[#ルビの「みつ」は底本では「みつめ」]めて居る。螽の如く蹲んだ男は、平たい顔を俯向《うつむ》けて、右手《みぎ》の食指《ひとさし》で砂の上に字を書いて居る――「忠志《ただし》」と書いて居る。書いては消し、消しては復《また》同じ字を書いて居る。忠志といふのは此男の名である。何遍も消しては、何遍も書く。用の少い官吏とか会社員とかが、仕様事なしの暇つぶしに、よく行《や》る奴で、恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事をする男は、大抵弾力のない思想を有《も》ツて居るものだ。頭脳に弾機《ばね》の無い者は、足に力の這入《はい》らぬ歩行《あるき》方をする。そして、女といふ女には皆好かれたがる。女の前に出ると、処嫌はず気取ツた身振をする、心は忽ち蕩《とろ》けるが、それで、煙草の煙の吹き方まで可成《なるべく》真面目腐ツてやる。何よりも美味《うま》い物が好《すき》で、色沢《いろつや》がよいものだ。此忠志君も、美味い物を食ふと見えて平たい顔の血色がよい。
蟇の如く胡坐をかいた男は、紙莨《たばこ》の煙をゆるやかに吹いて、静かに海を眺めて居る。凹《くぼ》んだ眼窩《めつぼ》の底に陰翳《くもり》のない眼が光ツて、見るからに男らしい顔立《かほだて》の、年齢《とし》は二十六七でがなあらう。浮いたところの毫《すこし》もない、さればと云ツて、心欝した不安の状《さま》もなく、悠然《ゆつたり》として海の広みに眼を放《や》る態度《こなし》は、雨に曝《さら》され雪に撃たれ、右から左から風に攻められて、磯馴の松の偏曲《ひねくれ》もせず、矗乎《すつく》と生ひ立ツた杉の樹の様に思はれる。海の彼方には津軽の山が浮んで、山の左から汐首の岬まで、灰色の空を被いだ太平洋が、唯一色の強い色を湛へて居る。――其水天|髣髴《はうふつ》の辺《あたり》にポツチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論|駛《はし》ツて居るには違ひないが、此処から見ては、唯ポツチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方《こつち》へ来るなと思へば、此方へ来る様に見える。先方《むかう》へ行くなと思へば、先方へ行く様に見える。何処の港を何日《いつ》立つて、何処の港へ何日着くのか。立ツて来る時には、必ず、アノ広い胸の底の、大きい重い悲痛《かなしみ》を、滞りなく出す様な汽笛を、誰|憚《はばか》らず鳴らした事であらう。其勇ましい唸《うめ》きの声が、真上の空を劈《つん》ざいて、落ちて四周《あたり》の山を動し、反ツて数知れぬ人の頭《こうべ》を低《た》れさせて、響の濤《なみ》の澎湃《はうはい》と、東に溢れ西に漲り、甍《いらか》を圧し、樹々を震はせ………………………弱り弱ツた名残の音《ね》が、見えざる光となツて、今猶、或は、世界の奈辺《どこ》かにさまよふて居るかも知れぬ。と考へて来た時、ポツチリとした沖の汽船《ふね》が、怎《どう》やら少し動いた様に思はれた。右へ動いたか左へ寄ツたか、勿論それは解らぬが、海に浮んだ汽船だもの動かぬといふ筈はない、必ず動いて居る筈だと瞳を据ゑる。黒い星は依然として黒い星で、見ても見ても、矢張《やつぱり》同じ所にポツチリとして居る。一体何処の港を何日立ツて、何処の港へ行く船だらうと、再《また》繰返して考へた。錨を抜いた港から、汽笛と共に揺《ゆる》ぎ出て、乗ツてる人の目指す港へ、船首《へさき》を向けて居る船には違《ちがひ》ない。
『昨日君の乗ツて来た汽船は、』と、男は沖を見た儘で口を開く。『何といふ汽船だツたかね。』
『午前三時に青森を出て、六時間にして函館港の泥水に、錆びた錨を投げた船だ。』と、仰向の男が答へる。
『名前がさ』
『知らん。』
『知らん?』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。』
『自分の乗ツた船の名前だぜ。』と、忠志君は平たい顔を上げて、たしなめる様に仰向の男を見る。
『だからさ。』
『君は何時でも其調子だ。』と苦い顔をしたが、『あれア陸奥丸《むつまる》です。随分汚ない船ですよ。』と胡坐の男に向いて説明する。
『あ、陸奥ですか。あれには僕も一度乗ツた事がある。余程《ようぽど》以前《まへ》の事《こつ》たが………………………』
『船員は、君、皆《みんな》男許りな様だが、あら怎《どう》したもんだらう。』と仰向の男が起き上る。
胡坐の男は沖の汽船から目を離して、躯を少し捻つた。『…………さうさね。海上の生活には女なんか要らんぢやないか。海といふ大きい恋人の胞《はら》の上を、縦横自在に駛《か》け廻るんだからね。』
『海といふ大きい恋人! さうか。』と復《また》仰向になツた。灰色の雲は、動くでもない動かぬでもない。遙かに男の顔を圧して、照る日の光を洩さぬから、午前か午後か、それさへも知る由のない大気の重々しさ。
胡坐の男は、砂の上に投げ出してある紙莨《タバコ》を一本とツて、チヨと燐寸《マツチ》を擦つたが、見えざる風の舌がペロリと舐めて、直ぐ滅《き》えた。復擦つたが復滅えた。三度目には十本許り一緒にして擦る。火が勢よく発した所を手早く紙莨に移して、息深く頬を凹《へこ》ませて吸うた煙を、少しづつ少しづつ鼻から出す。出た煙は、出たと見るまもなく海風に散ツて見えなくなる。
黙つて此様を見て居た忠志君の顔には、胸にある不愉快な思が、自づと現れて来るのか、何様渋い翳《くも》が漲ツて、眉間《みけん》の肉が時々ピリ/\と動いた。何か言はうとする様に、二三度口を蠢《うごめ》かしてチラリ仰向の男を見た目を砂に落す。『同じ事許り繰返していふ様だが、実際|怎《どう》も、肇さんの為方《やりかた》にや困ツて了ふね。無頓着といへば可《いい》のか、向不見《むかうみず》といへば可のか、正々堂々とか赤裸々とか君は云ふけれど、露骨に云へや後前《あとさき》見ずの乱暴だあね。それで通せる世の中なら、何処までも我儘通してゆくも可さ。それも君一人ならだね。彼※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に年老《としと》ツた伯母さんを、………………………今迄だツて一日も安心さした事ツて無いんだが、君にや唯《たつた》一人の御母《おつか》さんぢやないか、此以後《このさき》一体|怎《どう》する積りなんだい。昨宵《ゆうべ》もね、母が僕に然《さう》云ふんだ。君が楠野さん所《とこ》へ行ツた後にだね、「肇さんももう二十三と云へや小供でもあるまいに姉さんが什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に心配してるんだか、真実《ほんたう》に困ツちまふ」ツてね。実際困ツ了《ちま》ふんだ。君自身ぢや痛快だツたツて云ふが、然し、免職になる様な事を仕出かす者にや、まあ誰だツて同情せんよ。それで此方《こつち》へ来るにしてもだ。何とか先きに手紙でも来れや、職業《くち》の方だツて見付けるに都合が可《いい》んだ。昨日は実際僕|喫驚《びつくり》したぜ。何にも知らずに会社から帰ツて見ると、後藤の肇さんが来てるといふ。何しにツて聞くと、何しに来たのか解らないが、奥で昼寝をしてるツて、妹が君、眼を丸くして居たぜ。』
『彼※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》大きな眼を丸くしたら、顔一杯だツたらう。』
『君は何時でも人の話を茶にする。』と忠志君は苦り切つた。『君は何時でも其調子だし、怎《どう》せ僕とは全然《まるつきり》性が合はないんだ。幾何《いくら》云ツたツて無駄な事は解ツてるんだが、伯母さんの……………………君の御母さんの事を思へばこそ、不要《いらない》事も云へば、不要心配もするといふもんだ。母も云ツたが、実際君と僕程性の違ツたものは、マア滅多に無いね。』
『性が合はんでも、僕は君の従兄弟《いとこ》だよ。』
『
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング