だからさ、僕の従兄弟に君の様な人があるとは、実に不思議だね。』
『僕は君よりズツト以前《まへ》からさう思つて居た。』
『実際不思議だよ。………………』
『天下の奇蹟だね。』と嘴《くちばし》を容れて、古洋服の楠野君は横になツた。横になツて、砂についた片肱の、掌《たなごころ》の上に頭を載せて、寄せくる浪の穂頭を、ズツト斜めに見渡すと、其起伏の様が又一段と面白い。頭を出したり隠したり、活動写真で見る舞踏《ダンス》の歩調《あしどり》の様に追ひ越されたり、追越したり、段々近づいて来て、今にも我が身を洗ふかと思へば、牛の背に似た碧《みどり》の小山の頂が、ツイと一列《ひとつら》の皺を作ツて、真白の雪の舌が出る。出たかと見ると、其舌がザザーツといふ響きと共に崩れ出して、磯を目がけて凄まじく、白銀《しろがね》の歯車を捲いて押寄せる。警破《すは》やと思ふ束の間に、逃足立てる暇もなく、敵は見ン事|颯《さつ》と退《ひ》く。退いた跡には、砂の目から吹く潮の気が、シーツと清《すず》しい音《ね》を立てて、えならぬ強い薫を撒く。
『一体肇さんと、僕とは小児《こども》の時分から合はなかツたよ。』と忠志君は復《また》不快な調子で口を切る。『君の乱暴は、或は生来《うまれつき》なのかも知れないね。そら、まだお互に郷里《くに》に居て、尋常科の時分だ。僕が四年に君が三年だツたかな、学校の帰途《かへり》に、そら、酒屋の林檎畑へ這入ツた事があツたらう。何でも七八人も居たツた様だ。………………』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、さうだ、僕も思出す。発起人が君で、実行委員が僕。夜になツてからにしようと皆《みんな》が云ふのを構ふもんかといふ訳で、真先に垣を破ツたのが僕だ。続いて一同《みんな》乗り込んだが、君だけは見張をするツて垣の外に残ツたツけね。真紅《まつか》な奴が枝も裂けさうになツてるのへ、真先に僕が木登りして、漸々《やうやう》手が林檎に届く所まで登ツた時、「誰だ」ツてノソノソ出て来たのは、そら、あの畑番の六助|爺《ぢぢい》だよ。樹下《した》に居た奴等は一同《みんな》逃げ出したが、僕は仕方が無いから黙ツて居た。爺奴《ぢぢいめ》嚇《おど》す気になツて、「竿持ツて来て叩き落すぞ。」ツて云ふから、「そんな事するなら恁《かう》して呉れるぞ。」ツて、僕は手当り次第林檎を採ツて打付《ぶつつ》けた。爺|喫驚《びつくり》して「竿持ツて来るのは止めるから、早く降りて呉れ、旦那でも来れあ俺が叱られるから。」と云ふ。「そんなら降りてやるが、降りてから竿なんぞ持ツて来るなら、石打付けてやるぞ。」ツて僕はズルズル辷り落ちた。そして、投げつけた林檎の大きいのを五つ六つ拾ツて、出て来て見ると誰も居ないんだ。何処まで逃げたんだか、馬鹿な奴等だと思ツて、僕は一人でそれを食ツたよ。実に美味《うま》かツたね。』
『二十三で未だ其気なんだから困ツ了《ちま》うよ。』
『其晩、窃《そつ》と一人で大きい笊《ざる》を持ツて行ツて、三十許り盗んで来て、僕に三つ呉れたのは、あれあ誰だツたらう、忠志君。』
忠志君は、苦い顔をして横を向く。
『尤も、忠志君の遣方《やりかた》の方が理屈に合ツてると僕は思ふ。窃盗《ぬすみ》と云ふものは、由来暗い所で隠密《こつそり》やるべきものなんだからね。アハヽヽヽ。』
『馬鹿な事を。』
『だから僕は思ふ。今の社会は鼠賊《そぞく》の寄合で道徳とかいふものは其鼠賊共が、暗中の隠密《こつそり》主義を保持してゆく為めの規約だ。鼠賊をして鼠賊以上の行為なからしめんが為めには法律といふ網がある。滑稽極まるさ、自分で自分を縛る繩を作ツて太陽の光が蝋燭の光の何百万倍あるから、それを仰ぐと人間の眼が痛くなるといふ真理を発見して、成るべく狭い薄暗い所に許り居ようとする。それで、日進月歩の文明はこれで厶《ござ》いと威張る。歴史とは進化の義なりと歴史家が説く。アハヽヽヽヽ。
学校といふ学校は、皆鼠賊の養成所で、教育家は、好な酒を飲むにも隠密《こつそり》と飲む。これは僕の実見した話だが、或る女教師は、「可笑《をか》しい事があツても人の前へ出た時は笑ツちや不可《いけ》ません。」と生徒に教へて居た。可笑しい時に笑はなけれあ、腹が減ツた時|便所《はばかり》へ行くんですかツて、僕は後で冷評《ひやか》してやツた。………………尤もなんだね、宗教家だけは少し違ふ様だ。仏教の方ぢや、髪なんぞ被らずに、凸凹《でこぼこ》の瘤頭を臆面もなく天日に曝して居るし、耶蘇《やそ》の方ぢや、教会の人の沢山集ツた所でなけれあ、大きい声出して祈祷なんぞしない。これあ然し尤もだよ。喧嘩するにしても、人の沢山居る所でなくちや張合がないからね。アハヽヽ。』
『アハヽヽヽ。』と、楠野君は大声を出して和した。
『処でだ。』と肇さんは起き上ツて、右手を延して砂の上の紙莨《タバコ》を取ツたが、直ぐまた投げる。『這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》社会だから、赤裸々な、堂々たる、小児《せうに》の心を持ツた、声の太い人間が出て来ると、鼠賊共、大騒ぎだい。そこで其種の声の太い人間は、鼠賊と一緒になツて、大笊を抱へて夜中に林檎畑に忍ぶことが出来ぬから、勢ひ吾輩の如く、天が下に家の無い、否《いや》、天下を家とする浪人になる。浪人といふと、チヨン髷頭やブツサキ羽織を連想して不可《いかん》が、放浪の民だね、世界の平民だね、――名は幾何《いくら》でもつく、地上の遊星といふ事も出来る。道なき道を歩む人とも云へる、コスモポリタンの徒と呼んで見るも可《いい》。ハ………。』
『そこでだ、若し後藤肇の行動が、後前《あとさき》見ずの乱暴で、其乱暴が生得《うまれつき》で、そして、果して真に困ツ了《ちま》ふものならばだね、忠志君の鼠賊根性は怎《どう》だ。矢張それも生得で、そして、ウー、そして、甚だ困つて了はぬものぢやないか。怎だい。従兄弟君、怒ツたのかい。』
『怒ツたツて仕様が無い。』と、稍|霎時《しばらく》してから、忠志君が横向いて云ツた。
『「仕様が無い」とは仕様が無い。それこそ仕様が無いぢやないか。』
『だツて、実際仕様が無いから喃《なあ》。』
『然し君は大分苦い顔をして居るぜ。一体その顔は不可《いけない》よ。笑ふなら腸《はらわた》まで見える様に口をあかなくちや不可《いかん》。怒るなら男らしく真赤になツて怒るさ。そんな顔付は側《はた》で見てるさへ気の毒だ。そら、そら、段々苦くなツてくる。宛然《まるで》洋盃《コツプ》に一昨日《をととひ》注いだビールの様だ。仕様のない顔だよ。』
『馬鹿な。君は怎《どう》[#「怎《どう》」は底本では「恁《どう》」]も、実際仕様がない。』
『復「仕様がない」か。アハヽヽヽ。仕様がない喃《なあ》。』
話が間断《とぎ》れると、ザザーツといふ浪の音が、急に高くなる。楠野君は、二人の諍《あらそ》ひを聞くでもなく、聞かぬでもなく、横になツた儘で、紙莨を吹かし乍ら、浪の穂頭を見渡して居る。鼻から出る煙は、一寸許りのところで、チヨイと渦を巻いて、忽ち海風に散ツてゆく。浪は相不変、活動写真の舞踏《ダンス》の歩調《あしどり》で、重《かさな》り重り沖から寄せて来ては、雪の舌を銀の歯車の様にグルグルと捲いて、ザザーツと怒鳴り散らして颯と退《ひ》く。退いた跡には、シーツと音して、潮の気《け》がえならぬ強い薫を撒く。
二
程経てから、『折角の日曜だツたのに……』と口の中で呟いて、忠志君は時計を出して見た。『兎に角僕はお先に失敬します。』と、楠野君の顔色を覗ひ乍ら、インバネスの砂を払ツて立つ。
対手は唯『然《さう》ですか。』と謂ツただけで、別に引留めやうともせぬので、彼は聊か心を安んじたらしく、曇ツて日の見えぬ空を一寸|背身《そりみ》になツて見乍ら、『もう彼是十二時にも近いし、それに今朝|父親《おやぢ》が然《さう》言ツてましたから、先刻《さつき》話した校長の所へ、これから廻ツて見ようかと思《おもふ》んです。尤も恁《かう》いふ都会では、女なら随分資格の無い者も用《つか》ツてる様だけれど、男の代用教員なんか可成《なるべく》採用しない方針らしいですから、果して肇さんが其方へ入るに可《いい》か怎《どう》か、そら解りませんがね。然し大抵なら那《あ》の校長は此方《こつち》のいふ通りに都合してくれますよ。謂ツちや変だけれど、僕の父親《おやぢ》とは金銭上の関係もあるもんですからね。』
『ああ然ですか。何れ宜敷御尽力下さい。後藤君が此函館に来たについちや、何にしろ僕等先住者が充分尽すべき義務があるんですからね。』
『……まあ然です。兎に角僕は失敬します。肇さんも昼飯までには帰ツて来て呉れ給へ。ぢや失敬。』
忠志君は急歩《いそぎあし》に砂を踏んで、磯伝ひに右へ辿ツて行く。残ツた二人は黙ツて其後姿を見て居る。忠志君は段々遠くなツて、目を細うくして見ると、焦茶のインバネスが薄鼠の中折を被ツて立ツて居る様に見える。
『あれが僕の従兄なんだよ、君。』と肇さんが謂ふ。
『頭が貧しいんだね。』
忠志君の頭の上には、昔物語にある巨人の城廓の様に、函館山がガツシリした諸肩《もろがた》に灰色の天を支へて、いと厳そかに聳えて居る。山の中腹の、黒々とした松林の下には、春の一刷毛あざやかに、仄紅色《ほのくれなゐ》の霞の帯。梅に桜をこき交ぜて、公園の花は今を盛りなのである。木立の間、花の上、処々に現れた洋風の建築物《たてもの》は、何様異なる趣きを見せて、未だ見ぬ外国《とつくに》の港を偲ばしめる。
不図、忠志君の姿が見えなくなツた。と見ると、今迄忠志君の歩いて居た辺《あたり》を、三台の荷馬車が此方《こちら》へ向いて進んで来る。浪が今しも逆寄《さかよ》せて、馬も車も呑まむとする。呀《あつ》[#「呀《あつ》」は底本では「冴《あつ》」]と思ツて肇さんは目を見張ツた。砕けた浪の白※[#「さんずい+區」、第3水準1−87−4]《しらあわ》は、銀の歯車を巻いて、見るまに馬の脚を噛み、車輪の半分《なかば》まで没《かく》した。小さいノアの方舟《はこぶね》が三つ出来る。浪が退《ひ》いた。馬は平気で濡れた砂の上を進んで来る。復浪が来て、今度は馬の腹までも噛まうとする。馬はそれでも平気である、相不変ズン/\進んで来る。肇さんは驚きの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]ツて、珍らし気に此状《このさま》を眺めて居た。
『怎だえ、君、函館は可《いい》かね。』と、何時しか紙莨を啣へて居た楠野君が口を開いた。
『さうさね。昨日来たばかしで、昼寝が一度、夜寝が一度、飯を三度しか喰はん僕にや、まだ解らんよ。……だがね。まあ君|那《あれ》を見給へ。そら、復浪が来た。馬が輾《ころ》ぶぞ。そうら、……処が輾ばないんだ。矢張平気で以て進んで来る。僕は今急に函館が好になつたよ。喃《なあ》、君、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》豪《えら》い馬が内地になんか一疋だツて居るもんか。』
『ハハヽヽヽ』と楠野君は哄笑したが、『然しね君、北海道も今ぢや内地に居て想像する様な自由の天地ではないんだ。植民地的な、活気のある気風の多少残ツてゐる処もあるかも知れないが、此函館の如きは、まあ全然《まるで》駄目だね。内地に一番近い丈それ丈|不可《いかん》。内地の俗悪な都会に比して優ツてるのは、さうさね、まあ月給が多少高い位のもんだらう。ハハヽヽヽ。』
『そんなら君は何故三年も四年も居たんだ。』
『然《さう》いはれると立瀬が無くなるが、……詰り僕の方が君より遙かに意気地が無いんだね。……昨夜も話したツけが、僕の方の学校だツて、其内情を暴露して見ると実際情け無いもんだ。僕が這入ツてから既に足掛三年にもなるがね。女学校と謂へや君、若い女に教へる処だらう。若い女は年をとツて、妻になり、母になる。所謂家庭の女王になるんだらう。其処だ、君。僕は初めに其処を考へたんだ。現時の社会は到底破壊しなけりやならん。破壊しなけやならんが、僕等一人や二人が
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