――其水天|髣髴《はうふつ》の辺《あたり》にポツチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論|駛《はし》ツて居るには違ひないが、此処から見ては、唯ポツチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方《こつち》へ来るなと思へば、此方へ来る様に見える。先方《むかう》へ行くなと思へば、先方へ行く様に見える。何処の港を何日《いつ》立つて、何処の港へ何日着くのか。立ツて来る時には、必ず、アノ広い胸の底の、大きい重い悲痛《かなしみ》を、滞りなく出す様な汽笛を、誰|憚《はばか》らず鳴らした事であらう。其勇ましい唸《うめ》きの声が、真上の空を劈《つん》ざいて、落ちて四周《あたり》の山を動し、反ツて数知れぬ人の頭《こうべ》を低《た》れさせて、響の濤《なみ》の澎湃《はうはい》と、東に溢れ西に漲り、甍《いらか》を圧し、樹々を震はせ………………………弱り弱ツた名残の音《ね》が、見えざる光となツて、今猶、或は、世界の奈辺《どこ》かにさまよふて居るかも知れぬ。と考へて来た時、ポツチリとした沖の汽船《ふね》が、怎《どう》やら少し動いた様に思はれた。右へ動いたか左へ寄ツたか、勿論そ
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