……………………今迄だつて一日も安心さした事つて無いんだ。君にや唯一人の御母さんぢやないか、此以後《このあと》一體|怎《どう》する積りなんだい。昨宵《ゆうべ》もね、母が僕に然《さう》云ふんだ。君が楠野さん所へ行つた後にだね、「肇さんももう廿三と云へや子供でもあるまいに姉さんが什※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に心配してるんだか、眞實《ほんたう》に困つちまふ」つてね。實際困つちまふんだ。君自身ぢや痛快だつたつて云ふが、然し、免職になる樣な事を仕出《しで》かす者にや、まあ誰だつて同情せんよ。それで此方へ來るにしてもだ。何とか先に手紙でも來れや、職業《くち》の方だつて見付けるに都合が可《いゝ》んだ。昨日は實際僕|喫驚《びつくり》したぜ。何にも知らずに會社から歸つて見ると後藤の肇さんが來てるといふ。何しにつて聞くと、何しに來たのか解らないが、奧で晝寢をしてるつて、妹が君、眼を丸くして居たぜ。』
『彼※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》大きな眼を丸くしたら、顏一杯だつたらう。』
『君は何時も人の話を茶にする。』と忠志君は苦《にが》り切つた。『君は何時でも其調子だし、怎《どう》せ僕とは全然《まるつきり》性が合はないんだ。幾何《いくら》云つたつて無駄な事は解つてるんだが、伯母さんの……………………君の御母さんの事を思へばこそ、不要事《いらないこと》も云へば、不要《いらない》心配もするといふもんだ。母も云つたが、實際君と僕程性の違つたものは、マア滅多に無いね。』
『性が合はんでも、僕は君の從兄弟《いとこ》だよ。』
『だからさ、僕の從兄弟に君の樣な人があるとは、實に不思議だね。』
『僕は君よりズート以前からさう思つて居た。』
『實際不思議だよ。…………………』
『天下の奇蹟だね。』と嘴《くちばし》を容れて、古洋服の楠野君は横になつた。横になつて、砂についた片肱《かたひぢ》の、掌《たなごゝろ》の上に頭を載せて、寄せくる浪の穗頭を、ズット斜に見渡すと、其起伏の樣が又一段と面白い。頭を出したり隱したり、活動寫眞で見る舞踏《ダンス》の歩調《あしどり》の樣に追ひ越されたり、追越したり、段々近づいて來て、今にも我が身を洗ふかと思へば、牛の背に似た碧の小山の頂《いただき》が、ツイと一列《ひとつら》の皺を作つて、眞白の雪の舌が出る。出たかと見ると、其舌がザザーッといふ響きと共に崩れ出して、磯を目がけて凄まじく、白銀の齒車を捲いて押寄せる。警破《すは》やと思ふ束の間に、逃足立てる暇もなく、敵は見ン事|颯《さつ》と退《ひ》く。退いた跡には、砂の目から吹く潮の氣が、シーッと清《すゞ》しい音を立てゝ、えならぬ強い薫を撒く。
『一體肇さんと、僕とは小兒の時分から合はなかつたよ。』と忠志君は復不快な調子で口を切る。『君の亂暴は、或は生來《うまれつき》なのかも知れないね。そら、まだお互に郷里《くに》に居て、尋常科の時分だ。僕が四年に君が三年だつたかな、學校の歸途《かへり》に、そら、酒屋の林檎畑へ這入《はい》つた事があつたらう。何でも七八人も居たつた樣だ。………………。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、さうだ、僕も思出す。發起人が君で、實行委員が僕。夜になつてからにしようと皆《みんな》が云ふのを構ふもんかといふ譯で、眞先に垣を破つたのが僕だ。續いて一同《みんな》乘り込んだが、君だけは見張をするつて垣の外に殘つたつけね。眞紅《まつか》な奴が枝も裂けさうになつてるのへ、眞先に僕が木登りして、漸々《やう/\》手が林檎に屆く所まで登つた時「誰だ」つてノソ/\出て來たのは、そら、あの畑番の六助爺だよ。樹下《した》に居た奴等は一同《みんな》逃げ出したが、僕は仕方が無いから默つて居た。爺奴《ぢゞいめ》嚇《おどか》す氣になつて、「竿持つて來て叩き落すぞつ。」つて云ふから「そんな事するなら恁《か》うして呉れるぞ。」つて、僕は手當り次第林檎を採《と》つて打付《ぶつつ》けた。爺|吃驚《びつくり》して「竿持つて來るのは止めるから、早く降りて呉れ、旦那でも來れあ俺が叱られるから。」と云ふ。「そんなら降りてやるが、降りてから竿なんぞ持つて來るなら、石|打付《ぶつつ》けてやるぞ。」つて僕はズル/\辷り落ちた。そして、投げつけた林檎の大きいのを五つ六つ拾つて、出て來て見ると誰も居ないんだ。何處まで逃げたんだか、馬鹿な奴等だと思つて、僕は一人でそれを食つたよ。實に美味《うま》かつたね。』
『二十三で未だ其氣なんだから困つちまうよ。』
『其晩、窃《そつ》と一人で大きい笊《ざる》を持つて行つて、三十許り盜んで來て、僕に三つ呉れたのは、あれあ誰だつたらう、忠志君。』
 忠志君は苦い顏を
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