ものだ。此忠志君も、美味い物を食ふと見えて平たい顏の血色がよい。
蟇の如く胡坐をかいた男は、紙莨《たばこ》の煙をゆるやかに吹いて、靜かに海を眺めて居る。凹んだ眼窩の底に陰翳のない眼が光つて、見るからに男らしい顏立の、年齡は二十六七でがなあらう。浮いたところの毫《すこし》もない、さればと云つて心鬱した不安の状もなく、悠然として海の廣みに眼を放《や》る體度は、雨に曝され雪に撃たれ、右から左から風に攻《せ》められて、磯馴の松の偏曲もせず、矗乎《ぬつ》と生ひ立つた杉の樹の樣に思はれる。海の彼方には津輕の山が浮んで、山の左から汐首の岬まで、灰色の空を被いだ太平洋が、唯一色の強い色を湛へて居る。――其水天髣髴の邊にポッチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論|駛《はし》つて居るには違ひないが、此處から見ては、唯ポッチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方へ來るなと思へば、此方へ來る樣に見える。先方《あつち》へ行くなと思へば、先方へ行く樣に見える。何處の港を何日《いつ》發《た》つて、何處の港へ何日着くのか。發《た》つて來る時には、必ず、アノ廣い胸の底の、大きい重い悲痛を、滯りなく出す樣な汽笛を誰憚らず鳴らした事であらう。其勇ましい唸き聲が、眞上の空を擘《つん》ざいて、落ちて四匝《あたり》の山を動かし、反つて數知れぬ人の頭を低れさせて、響の濤の澎湃と、東に溢れ西に漲り、甍を壓し、樹々を震わせ…………………………弱り弱つた名殘の音が、見えざる光となつて、今猶、或は、世界の奈邊《どこ》[#「奈邊《どこ》」は底本では「奈|邊《どこ》」]かにさまようて居るかも知れぬ。と考へて來た時、ポッチリとした沖の汽船が、怎《どう》やら少し動いた樣に思はれた。右へ動いたか左へ寄つたか、勿論それは解らぬが、海に浮んだ汽船だもの動かぬといふ筈はない。必ず動いて居る筈だと瞳を据ゑる。黒い星は依然として黒い星で、見ても見ても、矢張同じ所にポッチリとして居る。一體何處の港を何日發つて、何處の港へ行く船だらうと、再《また》繰返して考へた。錨を拔いた港から、汽笛と共に搖ぎ出て、乘つてる人の目指す港へ、船首を向けて居る船には違ひない。
『昨日君の乘つて來た汽船《ふね》は、』と、男は沖を見た儘で口を開く。『何といふ汽船だツたかね。』
『午前三時に青森を出て、六時間にして函館港の泥水に、錆びた錨を投げた船だ。』と仰向の男が答へる。
『名前がさ』
『知らん。』
『知らん?』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》。』
『自分の乘つた船の名前だぜ。』と、忠志君は平たい顏を上げて、たしなめる樣に仰向の男を見る。
『だからさ。』
『君は何時でも其調子だ。』と苦い顏をしたが、『あれア陸奧丸です。膸分汚い船ですよ。』と胡坐の男に向いて説明する。
『あ、陸奧ですか、あれには僕も一度乘つた事がある。餘程以前の事だが………………………』
『船員は、君、皆男許りな樣だが、あら怎《どう》したもんだらう。』と仰向の男が起き上る。
胡坐の男は沖の汽船から眼を離して、躯を少し捻つた。『……………さうさね。海上の生活には女なんか要《い》らんぢやないか。海といふ大きい戀人の胞《はら》の上を、縱横自在に駛《か》け※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るんだからね。』
『海といふ大きい戀人! さうか。』と復仰向になツた。灰色の雲は、動くでもない動かぬでもない。遙かに男の顏を壓して、照る日の光を洩さぬから、午前か午後かそれさへも知る由のない大氣の重々しさ。
胡坐の男は、砂の上に投げ出してある紙莨を一本とつて、チョと燐寸《マツチ》を擦つたが、見えざる風の舌がペロリと舐めて、直ぐ滅《き》えた。復擦つたが復滅えた。三度目には十本許り一緒にして擦る。火が勢よく發した所を手早く紙莨に移して、息深く頬を凹ませて吸うた煙を、少しづつ少しづつ鼻から出す。出た煙は、出たと見るまもなく海風に散つて見えなくなる。
默つて此樣を見て居た忠志君の顏には、胸にある不愉快な思が、自づと現れて來るのか、何樣澁い翳《かげ》が漲つて、眉間の肉が時々ピリ/\と動いた。何か言はうとする樣に、二三度口を蠢《うごめ》かしてチラリ仰向の男を見た目を砂に落す。『同じ事許り繰返していふ樣だが、實際|怎《どう》も、肇《はじめ》さんの爲方《やりかた》にや困つて了ふね。無頓着といへば可のか、向不見《むかうみず》といへば可《いゝ》のか、正々堂々とか赤裸々とか君は云ふけれど露骨に云へや後前《あとさき》見ずの亂暴だあね。それで通せる世の中なら、何處までも我儘通して行くも可さ。それも君一人ならだね。彼※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》に年老つた伯母さんを、…
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