少許《すこし》だばあるども、呉《け》えらば呉《け》えで御座《ごぜ》え。』
『またお八重ツ子がら、御馳走《ごツちよう》になるべな。』
 と言つて、定次郎は腹掛から五十銭銀貨一枚出して、上框《あがりかまち》に腰かけてゐるお定へ投げてよこした。
 お八重はチラとお定の顔を見て、首尾よしと許り笑つたが、お定は父の露疑はぬ様を見て、穏《おとな》しい娘だけに胸が迫つた。さしぐんで来る涙を見せまいと、ツイと立つて裏口へ行つた。

     五

 夕方、一寸でも他所《よそ》ながら暇乞に、学校の藤田を訪ねようと思つたが、其《その》暇《ひま》もなく、農家の常とて夕餉は日が暮れてから済ましたが、お定は明日着て行く衣服を畳み直して置くと云つて、手ランプを持つた儘、寝室《ねま》にしてゐる四畳半許りの板敷に入つた。間もなくお八重が訪ねて来て、さり気ない顔をして入つたが、
『明日着て行ぐ衣服《きもの》すか?』と、態《わざ》と大きい声で言つた。
『然うす。明日着て行くで、畳み直してるす。』と、お定も態と高く答へて、二人目を見合せて笑つた。
 お八重は、もう全然《すつかり》準備《したく》が出来たといふ事で、今其風呂敷包は三つとも持出して来たが、此家《ここ》の入口の暗い土間に隠して置いて入つたと言ふ事であつた。で、お定も急がしく萌黄《もえぎ》の大風呂敷を拡げて、手廻りの物を集め出したが、衣服といつても唯《たつた》六七枚、帯も二筋、娘心には色々と不満があつて、この袷は少し老《ふ》けてゐるとか、此袖口が余り開き過ぎてゐるとか、密々話《ひそひそばなし》に小一時間もかゝつて、漸々《やうやう》準備が出来た。
 父も母もまだ炉辺に起きてるので、も少許《すこし》待つてから持出さうと、お八重は言ひ出したが、お定は些《ちよつ》と躊躇してから、立つと明《あかり》とりの煤けた櫺子《れんじ》に手をかけると、端の方三本許り、格子が何の事もなく取れた。それを見たお八重は、お定の肩を叩いて、
『この人《しと》アまあ、可《え》え工夫してること。』と笑つた。お定も心持顔を赧くして笑つたが、風呂敷包は、難なく其処から戸外《そと》へ吊り下された。格子は元の通りに直された。
 二人はそれから権作老爺の許へ行つて、二人前の風呂敷包を預けたが、戸外の冷かな夜風が、耳を聾する許りな虫の声を漂はせて、今夜限り此生れ故郷を逃げ出すべき二人の娘にいう許りなき心悲《うらがな》しい感情を起させた。所々降つて来さうな秋の星、八日許りの片割月《かたわれづき》が浮雲の端に澄み切つて、村は家並の屋根が黒く、中央程《なかほど》の郵便局の軒燈のみ淋しく遠く光つてゐる。二人は、何といふ事もなく、もう湿声《うるみごゑ》になつて、断々《きれぎれ》に語りながら、他所《よそ》ながら家々に別れを告げようと、五六町しかない村を、南から北へ、北から南へ、幾度となく手を取合つて吟行《さまよ》うた。路で逢ふ人には、何日《いつ》になく忸々《なれなれ》しく此方から優しい声を懸けた。作右衛門店にも寄つて、お八重は※[#「巾+扮のつくり」、143−下−3]※[#「巾+兌」、143−下−3]《ハンケチ》を二枚買つて、一枚はお定に呉れた。何処ともない笑声、子供の泣く声もする。とある居酒屋の入口からは、火光《あかり》が眩《まばゆ》く洩れて、街路《みち》を横さまに白い線を引いてゐたが、虫の音も憚からぬ酔うた濁声《だみごゑ》が、時々けたゝましい其店の嬶の笑声を伴つて、喧嘩でもあるかの様に一町先までも聞える。二人は其騒々しい声すらも、なつかしさうに立止つて聞いてゐた。
 それでも、二時間も歩いてるうちには、気の紛れる話もあつて、お八重に別れてスタ/\と家路に帰るお定の眼には、もう涙が滲んでゐず、胸の中では、東京に着いてから手紙を寄越すべき人を彼是と数へてゐた。此村《ここ》から東京へ百四十五里、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は知らぬ。東京は仙台といふ所より遠いか近いか、それも知らぬ。唯明日は東京にゆくのだと許り考へてゐる。
 枕に就くと、今日位身体も心も急がしかつた事がない様な気がして、それでも、何となく物足らぬ様な、心悲《うらがな》しい様な、恍乎《うつとり》とした疲心地で、すぐうと/\と眠つて了つた。

 ふと目が覚めると、消すのを忘れて眠つた枕辺《まくらもと》の手ランプの影に、何処から入つて来たか、蟋蟀《こほろぎ》が二|疋《ひき》、可憐な羽を顫はして啼いてゐる。遠くで若者《わかいもの》が吹く笛の音のする所から見れば、まだ左程夜が更けてもゐぬらしい。
 と櫺子の外にコツコツと格子を叩く音がする。あ之で目が覚めたのだなと思つて、お定は直ぐ起き上つて、密《こつそ》りと格子を脱《はづ》した。丑之助が身軽に入つて了つた。
 手ランプを消した。
 一時間許り経つと、丑之助がもう帰準備《かへりじたく》をするので、これも今夜|限《きり》だと思ふと、お定は急に愛惜の情が喉に塞つて来て、熱い涙が滝の如く溢れた。別に丑之助に未練を残すでも何でもないが、唯もう悲しさが一時に胸を充たしたので、お定は矢庭に両手で力の限り男を抱擁《だきし》めた。男は暗《やみ》の中にも、遂ぞ無い事なので吃驚《びつくり》して、目を円《まろ》くしてゐたが、やがてお定は忍音《しのびね》に歔欷《すすりなき》し始めた。
 丑之助は何の事とも解りかねた。或は此お定ツ子が自分に惚れたのぢやないかとも思つたが、何しろ余り突然なので、唯目を円くするのみだ。
『怎したけな?』と囁いてみたが返事がなくて一層|歔欷《すすりな》く。と、平常《ひごろ》から此女の穏《おとな》しく優しかつたのが、俄かに可憐《いぢらし》くなつて来て、丑之助は再《また》、
『怎したけな、真《ほんと》に?』と繰返した。『俺ア何か悪い事でもしたげえ?』
 お定は男の胸に密接《ぴたり》と顔を推着《おつつ》けた儘で、強く頭を振つた。男はもう無性にお定が可憐《いぢらし》くなつて、
『だら怎したゞよ? 俺ア此頃|少許《すこし》急しくて四日許り来ねえでたのを、汝《うな》ア憤《おこ》つたのげえ?』
『嘘だ!』とお定は囁く。
『嘘でねえでヤ。俺ア真実《ほんと》に、汝《うな》アせえ承知して呉《け》えれば、夫婦《いつしよ》になりてえど思つてるのに。』
『嘘だ!』とお定はまた繰返して、一層強く男の胸に顔を埋めた。
 暫しは女の歔欷《すすりな》く声のみ聞えてゐたが、丑之助は、其漸く間断々々《とぎれとぎれ》になるのを待つて、
『汝《うな》ア頬片《ほつぺた》、何時来ても天鵞絨《ビロウド》みてえだな。十四五の娘子《めらしご》と寝る様だ。』と言つた。これは此若者が、殆んど来る毎にお定に言つてゆく讃辞《ことば》なので。
『十四五の娘子供《めらしやど》とも寝てるだべせア。』とお定は鼻をつまらせ乍ら言つた。男は、女の機嫌の稍《やや》直つたのを見て、
『嘘だあでヤ。俺ア、酒でも飲んだ時ア他《ほか》の女子《をなご》さも行《え》ぐども、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんた》に浮気ばしてねえでヤ。』
 お定は、胸の中で、此丑之助にだけは東京行の話をしても可からうと思つて見たが、それではお八重に済まぬ。といつて、此儘何も言はずに別れるのも残惜しい。さて怎《どう》したものだらうと頻りに先刻から考へてゐるのだが、これぞといふ決断もつかぬ。
『丑さん。』と稍あつてから囁いた。
『何しや?』
『俺ア明日……』
『明日? 明日の晩も来るせえ。』
『そでねえだ。』
『だら何しや?』
『明日《あした》俺《おら》ア、盛岡さ行つて来るす。』
『何しにせヤ?』
『お八重さんが千太郎さん許《とこ》さ行くで、一緒に行つて来るす。』
『然《さ》うが、八重ツ子ア今夜《こんにや》、何とも言はながつけえな。』
『だらお前、今夜《こんにや》もお八重さんさ行つて来たな?』
『然うだねえでヤ。』と言つたが、男は少許《すこし》狼狽《うろた》へた。
『だら何時逢つたす?』
『何時ツて、八時頃にせえ。ホラ、あのお芳ツ子|許《とこ》の店でせえ。』
『嘘だす、此《この》人《しと》ア。』
『怎してせえ?』と益々狼狽へる。
『怎しても恁うしても、今夜《こんにや》日《ひ》ヤ暮れツとがら、俺アお八重さんと許《ばか》り歩いてだもの』
『だつて。』と言つて、男はクスクス笑ひ出した。
『ホレ見らせえ!』と女は稍声高く言つたが、別に怒つたでもない。
『明日《あした》汽車で行くだか?』
『権作|老爺《おやぢ》の荷馬車|行《い》くで。』
『だら、朝早かべせえ。』と言つたが、『小遣銭|呉《け》えべかな? ドラ、手ランプ点《つ》けろでヤ。』
 お定が黙つてゐたので、丑之助は自分で手探りに燐寸《マツチ》を擦つて手ランプに移すと、其処に脱捨てゝある襯衣《シヤツ》の衣嚢《かくし》から財布を出して、一円紙幣を一枚女の枕の下に入れた。女は手ランプを消して、
『余計だす。』
『余計な事ア無《ね》えせア。もつと有るものせえ。』
 お定は、平常《ひごろ》ならば恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を余り快く思はぬのだが、常々添寝した男から東京行の餞別を貰つたと思ふと、何となく嬉しい。お八重には恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事が無からうなどゝ考へた。
 先刻《さつき》の蟋蟀《こほろぎ》が、まだ何処か室の隅ツこに居て、時々思出した様に、哀れな音を立てゝゐた。此夜お定は、怎しても男を抱擁《だきし》めた手を弛《ゆる》めず、夜明近い鶏の頻りに啼立てるまで、厩の馬の鬣《たてがみ》を振ふ音や、ゴト/\破目板を蹴る音を聞きながら、これといふ話もなかつたけれど、丑之助を帰してやらなかつた。

     六

 其|翌朝《あくるあさ》は、グツスリと寝込んでゐる所をお八重に起されて、眠い眼を擦《こす》り/\、麦八分の冷飯に水を打懸《ぶつか》けて、形許《かたばか》り飯を済まし、起きたばかりの父母や弟に簡単な挨拶をして、村端れ近い権作の家の前へ来ると、方々から一人二人水汲の女共が、何れも眠相《ねむさう》な顔をして出て来た。荷馬車はもう準備《したく》が出来てゐて、権作は嬶《かかあ》に何やら口小言を言ひながら、脚の太い黒馬《あを》を曳き出して来て馬車に繋いでゐた。
『何処へ』と問ふ水汲共には『盛岡へ』と答へた。二人は荷馬車に布いた茣蓙《ござ》の上に、後向になつて行儀よく坐つた。傍には風呂敷包。馬車の上で髪を結つて行くといふので、お八重は別に櫛やら油やら懐中鏡やらの小さい包みを持つて来た。二人共木綿物ではあるが、新しい八丈|擬《まが》ひの縞の袷を着てゐた。
 軈《やが》て権作は、ピシヤリと黒馬《あを》の尻を叩いて、『ハイ/\』と言ひながら、自分も馬車に飛乗つた。馬は白い息を吐きながら、南を向けて歩き出した。
 二人は、まだ頭脳《あたま》の中が全然《すつかり》覚めきらぬ様で、呆然《ぼんやり》として、段々後方に遠ざかる村の方を見てゐたが、道路の両側はまだ左程古くない松並木、暁の冷さが爽かな松風に流れて、叢の虫の音は細い。一町許り来た時、村端れの水汲場の前に、白手拭を下げた男の姿が見えた。それは、毎朝其処に顔洗ひに来る藤田であつた。お定は膝の上に握つてゐた新しい※[#「巾+扮のつくり」、146−下−7]※[#「巾+兌」、146−下−7]《ハンケチ》を取るより早く、少し伸び上つてそれを振つた。藤田は立止つて凝然《じつ》と此方《こつち》を見てゐる様だつたが、下げてゐた手拭を上げたと思ふ間に、道路《みち》は少し曲つて、並木の松に隠れた。と、お定は今の素振を、お八重が何と見たかと気がついて、心羞《うらはづ》かしさと落胆《がつかり》した心地でお八重の顔を見ると、其美しい眼には涙が浮かんでゐた。それを見ると、お定の眼にも遽《には》かに涙が湧いて来た。
 盛岡へ五里を古い新しい松並木、何本あるか数へた人はない。二人が
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