おら》知らねえす。」と人の後に隠れる。
小学校での成績は、同じ級《クラス》のお八重などよりは遙《ずつ》と劣つてゐたさうだが、唯一つ得意なのは唱歌で、其為に女教員からは一番可愛がられた。お八重は此反対に、今は他に縁づいた異腹《はらちがひ》の姉と一緒に育つた所為《せゐ》か、負嫌ひの、我の強い児で、娘盛りになつてからは、手もつけられぬ阿婆摺《あばずれ》になつた。顔も亦、評判娘のお澄といふのが一昨年《おととし》赤痢で亡くなつてから、村で右に出る者がないので、目尻に少許《すこし》険しい皺があるけれど、面長のキリヽとした輪廓が田舎に惜しい。此反対な二人の莫迦《ばか》に親密《なかよし》なのは、他の娘共から常に怪まれてゐた位で、また半分は嫉妬《やきもち》気味から、「那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》阿婆摺《あばずれ》と一緒にならねえ方が可《え》えす。」と、態々《わざわざ》お定に忠告する者もあつた。
お定が其夜枕についてから、一つには今日何にも働かなかつた為か、怎《どう》しても眠れなくて、三時間許りも物思ひに耽つた。真黒に煤けた板戸一枚の彼方から、安々と眠つた母の寝息を聞いては、此母、此家を捨てゝ、何として東京などへ行かれようと、すぐ涙が流れる。と、其涙の乾かぬうちに、東京へ行つたら源助さんに書いて貰つて、手紙だけは怠らず寄越す事にしようと考へる。すると、すぐ又三年後の事が頭に浮ぶ。立派な服装《みなり》をして、絹張の傘を持つて、金を五十円も貯めて来たら、両親だつて喜ばぬ筈がない。嗚呼其時になつたら、お八重さんは甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に美しく見えるだらうと思ふと、其お八重の、今日目を輝かして熱心に語つた美しい顔が、怎やら嫉ましくもなる。此夜のお定の胸に、最も深く刻まれてるのは、実に其《その》お八重の顔であつた。怎してお八重一人だけ東京にやられよう!
それからお定は、小学校に宿直してゐた藤田といふ若い教員の事を思出すと、何日《いつ》になく激しく情が動いて、私が之程思つてるのにと思ふと、熱《あつた》かい涙が又しても枕を濡らした。これはお定の片思ひなので、否、実際はまだ思ふといふ程思つてるでもなく、藤田が四月に転任して来て以来、唯途で逢つて叩頭《おじぎ》するのが嬉しかつた位で、遂十日許り前、朝草刈の帰りに、背負うた千草の中に、桔梗や女郎花《をみなへし》が交つてゐたのを、村端《むらはづれ》で散歩してゐた藤田に二三本呉れぬかと言はれた、その時初めて言葉を交したに過ぎぬ。その翌朝からは、毎朝咲残りの秋の花を一束宛、別に手に持つて来るけれども、藤田に逢ふ機会がなかつた。あの先生さへ優しくして呉れたら、何も私は東京などへ行きもしないのに、と考へても見たが、又、今の身分ぢや兎ても先生のお細君《かみ》さんなどに成れぬから、矢張三年行つて来るが第一だとも考へる。
四晩に一度は屹度忍んで寝に来る丑之助――兼大工《かねだいく》の弟子で、男振りもよく、年こそまだ二十三だが、若者《わかいもの》中で一番幅の利く――の事も、無論考へられた。恁《かか》る田舎の習慣《ならはし》で、若い男は、忍んで行く女の数の多いのを誇りにし、娘共も亦、口に出していふ事は無いけれ共、通つて来る男の多きを喜ぶ。さればお定は、丑之助がお八重を初め三人も四人も情婦《をんな》を持つてる事は熟《よ》く知つてゐるので、或晩の如きは、男自身の口から其情婦共の名を言はして擽《くすぐ》つて遣つた位。二人の間は別に思合つた訳でなく、末の約束など真面目にした事も無いが、怎かして寝つかれぬ夜などは、今頃丑さんが誰と寝てゐるかと、嫉《や》いて見た事のないでもない。私とお八重さんが居なくなつたら、丑さんは屹度お作の所に許りゆくだらうと考へると、何かしら妬ましい様な気もした。
胸に浮ぶ思の数々は、それからそれと果しも無い。お定は幾度《いくたび》か一人で泣き、幾度か一人で微笑《ほほゑ》んだ。そして、遂《つい》うと/\となりかゝつた時、勝手の方に寝てゐる末の弟が、何やら声高に寝言を言つたので、はツと眼が覚め、嗚呼あの弟は淋しがるだらうなと考へて、睡気《ねむけ》交りに涙ぐんだが、少女《をとめ》心の他愛なさに、二人の弟が貰ふべき嫁を、誰彼となく心で選んでるうちに、何時しか眠つて了つた。
四
目を覚ますと、弟のお清書を横に逆《さかし》まに貼つた、枕の上の煤けた櫺子《れんじ》が、僅かに水の如く仄めいてゐた。誰もまだ起きてゐない。遠近《をちこち》で二番鶏が勇ましく時をつくる。けたたましい羽搏きの音がする。
お定はすぐ起きて、寝室《ねま》にしてゐる四畳半許りの板敷を出た。手探りに草裏を突かけて、表裏の入口を開けると、厩では乾秣《やた》を欲しがる馬の、羽目板を蹴る音がゴト/\と鳴る。大桶を二つ担いで、お定は村端《むらはづれ》の樋の口といふ水汲場に行つた。
例《いつ》になく早いので、まだ誰も来てゐなかつた。漣《さざなみ》一つ立たぬ水槽の底には、消えかゝる星を四つ五つ鏤《ちりば》めた黎明《しののめ》の空が深く沈んでゐた。清洌な秋の暁の気が、いと冷かに襟元から総身に沁む。叢にはまだ夢の様に虫の音がしてゐる。
お定は暫時《しばし》水を汲むでもなく、水鏡に写つた我が顔を瞶めながら、呆然《ぼんやり》と昨夜《ゆうべ》の事を思出してゐた。東京といふ所は、ずつと/\遠い所になつて了つて、自分が怎して其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》所まで行く気になつたらうと怪まれる。矢張自分は此村に生れたのだから、此村で一生暮らす方が本当だ。恁《か》うして毎朝水汲に来るのが何より楽しい。話の様な繁華な所だつたら、屹度恁ういふ澄んだ美しい水などが見られぬだらうなどゝ考へた。と、後に人の足音がするので、振向くと、それはお八重であつた。矢張り桶をぶら/\担いで来るが、寝くたれ髪のしどけなさ、起きた許りで脹《はれ》ぼつたくなつてゐる瞼さへ、殊更|艶《なまめ》かしく見える。あの人が行くのだもの、といふ考へが、呆然した頭をハツと明るくした。
『お八重さん、早えなツす。』
『お前《めえ》こそ早えなツす。』と言つて、桶を地面に下した。
『あゝ、まだ虫ア啼いてる!』と、お八重は少し顔を歪めて、後毛を掻上げる。遠く近くで戸を開ける音が聞える。
『決めたす、お八重さん。』
『決めたすか?』と言つたお八重の眼は、急に晴々しく輝いた。『若しもお前行かなかつたら、俺一人|奈何《どう》すべと思つてだつけす。』
『だつてお前怎しても行くべえす?』
『お前も決めたら、一緒に行くのす。』と言つて、お八重は軽く笑つたが、『そだつけ、大変だお定さん、急がねえばならねえす。』
『怎してす?』
『怎してつて、昨晩《ゆべな》聞いたら、源助さん明後日《あさつて》立つで、早く準備《したく》せツてゐたす。』
『明後日?』と、お定は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
『明後日!』と、お八重も目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた。
二人は暫し互《かた》みの顔を打瞶《うちまも》つてゐたが、『でヤ、明日盛岡さ行《い》がねばならねえな。』と、お定が先づ我に帰つた。
『然《さ》うだす。そして今夜《こんにや》のうちに、衣服《きもの》だの何包んで、権作|老爺《おやぢ》さ頼まねばならねえす。』
『だらハア、今夜《こんにや》すか?』と、お定は再《また》目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた。
左《さ》う右《か》うしてるうちに、一人二人と他の水汲が集つて来たので、二人はまだ何か密々《ひそひそ》語り合つてゐたが、軈《やが》て満々《なみなみ》と水を汲んで担ぎ上げた。そして、すぐ二三軒先の権作が家へ行つて、
『老爺《おやぢ》ア起きたすか?』と、表から声をかけた。
『何時まで寝てるべえせア。』と、中から胴間声がする。
二人は目を見合して、ニツコリ笑つたが、桶を下して入つて行つた。馬車|追《ひき》の老爺《おやぢ》は丁度厩の前で乾秣《やた》を刻むところであつた。
『明日《あした》盛岡さ行《い》ぐすか?』
『明日がえ? 行《え》ぐどもせア。権作ア此|老年《とし》になるだが、馬車|曳《ふ》つぱらねえでヤ、腹減つて斃死《くたば》るだあよ。』
『だら、少許《すこし》持つてつて貰ひてえ物が有るがな。』
『何程《なんぼ》でも可《え》えだ。明日ア帰《けえ》り荷だで、行《え》ぐ時ア空馬車|曳《ふ》つぱつて行《え》ぐのだもの。』
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に沢山《たんと》でも無えす。俺等《おら》も明日盛岡さ行ぐども、手さ持つてげば邪魔だです。』
『そんだら、ハア、お前達《めえだち》も馬車さ乗つてつたら可がべせア。』
二人は又目を見合して、二言三言|諜《しめ》し合つてゐたが、
『でア老爺《おやぢ》な、俺等《おら》も乗せでつて貰ふす。』
『然うして御座《ごぜ》え。唯、巣子《すご》の掛茶屋さ行つたら、盛切酒《もりきりざけ》一杯《いつぺえ》買ふだアぜ。』
『買ふともす。』と、お八重は晴やかに笑つた。
『お定ツ子も行ぐのがえ?』
お定は一寸|狼狽《うろた》へてお八重の顔を見た。お八重は再《また》笑つて『一人だば淋しだで、お定さんにも行つて貰ふべがと思つてす。』
『ハア、俺ア老人《としより》だで可えが、黒馬《あを》の奴ア怠屈《てえくつ》しねえで喜ぶでヤ。だら、明日《あした》ア早く来て御座え。』
此日は、二人にとつて此上もない急がしい日であつた。お定は、水汲から帰ると直ぐ朝草刈に平田野《へいだの》へ行つたが、莫迦《ばか》に気がそは/\して、朝露に濡れた利鎌《とがま》が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無数の露の美しさ。秋草の香が初蕈《はつだけ》の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌《とがま》の動く毎に、サツサツと音して臥《ね》る草には、萎枯《すが》れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往来《ゆきき》する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、例《いつも》より余程長くかゝつた。
朝草を刈つて来てから、馬の手入を済ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り残してある山手の畑へ、父と弟と三人で粟刈に行つた。それも午前《ひるまへ》には刈り了へて、弟と共に黒馬《あを》と栗毛の二頭で家の裏へ運んで了つた。
母は裏の物置の側《わき》に荒蓆を布いて、日向ぼツこをしながら、打残しの麻糸を砧《う》つてゐる。三時頃には父も田廻りから帰つて来て、厩の前の乾秣場《やたば》で、鼻唄ながらに鉈《なた》や鎌を研ぎ始めた。お定は唯もう気がそは/\して、別に東京の事を思ふでもなく、明日の別れを悲むでもない、唯何といふ事なくそは/\してゐた。裁縫も手につかず、坐つても居られず、立つても居られぬ。
大工の家へ裏伝ひにゆくと、恰度お八重一人ゐた所であつたが、もう風呂敷包が二つ出来上つて、押入れの隅に隠してあつた。其処へ源助が来て、明後日の夕方までに盛岡の停車場前の、松本といふ宿屋に着くから、其処へ訪ねて一緒になるといふ事に話をきめた。
それからお八重と二人家へ帰ると、父はもう鉈鎌を研ぎ上げたと見えて、薄暗い炉端に一人|踏込《ふんご》んで、莨を吹かしてゐる。
『父爺《おやぢ》や。』とお定は呼んだ。
『何しや?』
『明日盛岡さ行つても可えが?』
『お八重ツ子どがえ?』
『然《さ》うしや。』
『八幡様のお祭礼《まつり》にや、まだ十日もあるべえどら。』
『八幡様までにや、稲刈が始るべえな。』
『何しに行ぐだあ?』
『お八重さんが千太郎さま宅《とこ》さ用あつて行くで、俺も伴《つ》れてぐ言ふでせア。』
『可《え》がべす、老爺《おやぢ》な。』とお八重も喙《くち》を容れた。
『小遣銭があるがえ?』
『
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