天鵞絨
石川啄木

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)理髪師《とこや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|午後《ひるすぎ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

     一

 理髪師《とこや》の源助さんが四年振で来たといふ噂が、何か重大な事件でも起つた様に、口から口に伝へられて、其|午後《ひるすぎ》のうちに村中に響き渡つた。
 村といつても狭いもの。盛岡から青森へ、北上川に縺《もつ》れて逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《うねうね》と北に走つた。坦々たる其一等道路(と村人が呼ぶ)の、五六町並木の松が断絶《とだ》えて、両側から傾き合つた茅葺勝《かやぶきがち》の家並の数が、唯《たつた》九十何戸しか無いのである。村役場と駐在所が中央《なか》程に向合つてゐて、役場の隣が作右衛門店、万《よろづ》荒物から酢醤油石油|莨《たばこ》、罎詰の酒もあれば、前掛半襟にする布帛《きれ》もある。箸で断《ちぎ》れぬ程堅い豆腐も売る。其隣の郵便局には、此村に唯《たつた》一つの軒燈がついてるけれども、毎晩|点火《とも》る訳ではない。
 お定がまだ少《ちひさ》かつた頃は、此村に理髪店《とこや》といふものが無かつた。村の人達が其頃、頭の始末を奈何《どう》してゐたものか、今になつて考へると、随分不便な思をしたものであらう。それが、九歳《ここのつ》か十歳《とう》の時、大地主の白井様が盛岡から理髪師《とこや》を一人お呼びなさるといふ噂が、恰も今度源助さんが四年振で来たといふ噂の如く、異様な驚愕《おどろき》を以て村中に伝つた。間もなく、とある空地に梨箱の様な小さい家《うち》が一軒建てられて、其家が漸々《やうやう》壁塗を済ませた許りの処へ、三十恰好の、背の低い、色の黒い理髪師が遣つて来た。頗《すこぶ》るの淡白者《きさくもの》で、上方弁の滑かな、話|巧者《じやうず》の、何日《いつ》見てもお愛想が好いところから、間もなく村中の人の気に入つて了つた。それが乃《すなは》ち源助さんであつた。
 源助さんには、お内儀《かみ》さんもあれば子息《こども》もあるといふ事であつたが、来たのは自分一人。愈々《いよいよ》開業となつてからは、其店《そこ》の大きい姿見が、村中の子供等の好奇心を刺戟したもので、お定もよく同年輩《おないどし》の遊び仲間と一緒に行つて、見た事もない白い瀬戸の把手《とつて》を上に捻《ねぢ》り下に捻り、辛《やつ》と少許《すこし》入口の扉《と》を開けては、種々《いろん》な道具の整然《きちん》と列べられた室《へや》の中を覗いたものだ。少許《すこし》開けた扉が、誰の力ともなく、何時の間にか身体の通るだけ開くと、田舎の子供といふものは因循なもので、盗みでもする様に怖《おつか》な怯《びつく》り、二寸三寸と物も言はず中に入つて行つて、交代《かはるがはる》に其姿見を覗く。訝《をかし》な事には、少許《すこし》離れて写すと、顔が長くなつたり、扁《ひらた》くなつたり、目も鼻も歪んで見えるのであつたが、お定は幼心に、これは鏡が余り大き過ぎるからだと考へてゐたものだ。
 月に三度の一の日を除いては、(此日には源助さんが白井様へ上つて、お家中《うちぢゆう》の人の髪を刈つたり顔を剃《あた》つたりするので、)大抵村の人が三人四人、源助さんの許《とこ》で莨《たばこ》を喫《ふか》しながら世間話をしてゐぬ事はなかつた。一年程経つてから、白井様の番頭を勤めてゐた人の息子で、薄野呂なところからノロ勘と綽名《あだな》された、十六の勘之助といふのが、源助さんに弟子入をした。それからといふものは、今迄|近《ちかづ》き兼ねてゐた子供等まで、理髪店の店を遊場にして、暇な時にはよく太閤記や義経や、蒸汽船や加藤清正の譚《はなし》を聞かして貰つたものだ。源助さんが居ない時には、ノロ勘が銭函から銅貨を盗み出して、子供等に※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]麺麭《あんぱん》を振舞ふ事もあつた。振舞ふといつても、其実半分以上はノロ勘自身の口に入るので。
 源助さんは村中での面白い人として、衆人《みんな》に調法がられたものである。春秋の彼岸には、お寺よりも此人の家の方が、餅を沢山貰ふといふ事で、其代り又、何処の婚礼にも葬式にも、此人の招ばれて行かぬ事はなかつた。源助さんは、啻《ただ》に話巧者で愛想が好い許りでなく、葬式に行けば青や赤や金の紙で花を拵へて呉れるし、婚礼の時は村の人の誰も知らぬ「高砂」の謡をやる。加之《のみならず》何事にも器用な人で、割烹《れうり》の心得もあれば、植木|弄《いじ》りも好き、義太夫と接木《つぎき》が巧者《じやうず》で、或時は白井様の子供衆のために、大奉《だいほう》八枚張の大紙鳶《おほたこ》を拵へた事もあつた。其処此処の夫婦喧嘩や親子喧嘩に仲裁を怠らなかつたは無論の事。
 左《さ》う右《か》うしてるうちに、お定は小学校も尋常科だけ卒へて、子守をしてる間に赤い袖口が好きになり、髪の油に汚れた手拭を独自《ひとりで》に洗つて冠る様になつた。土土用《つちどよう》が過ぎて、肥料《こえ》つけの馬の手綱を執る様になると、もう自づと男羞しい少女心が萌《きざ》して来て、盆の踊に夜を明すのが何よりも楽しい。随つて、ノロ勘の朋輩の若衆《わかいしゆ》が、無駄口を戦はしてゐる理髪師の店にも、おのづと見舞ふ事が稀になつたが、其頃の事、源助さんの息子さんだといふ、親に似ぬ色白の、背のすらりとした若い男が、三月許りも来てゐた事があつた。
 お定が十五(?)の年、も少許《すこし》で盆が来るといふ暑気《あつさ》盛りの、踊に着る浴衣やら何やらの心構へで、娘共にとつては一時も気の落着く暇がない頃であつた。源助さんは、郷里《くに》(と言つても、唯上方と許りしか知らなかつたが、)にゐる父親が死んだとかで、俄かに荷造をして、それでも暇乞だけは家毎《いへごと》にして、家毎から御餞別を貰つて、飼馴《かひなら》した籠の鳥でも逃げるかの様に村中から惜まれて、自分でも甚《いた》く残惜しさうにして、二三日の中にフイと立つて了つた。立つ時は、お定も人々と共に、一里許りのステイシヨンまで見送つたのであつたが、其|帰途《かへり》、とある路傍《みちばた》の田に、稲の穂が五六本出|初《そ》めてゐたのを見て、せめて初米の餅でも搗《つ》くまで居れば可いのにと、誰やらが呟いた事を、今でも夢の様に記憶《おぼ》えて居る。
 何しろ極く狭い田舎なので、それに足下《あしもと》から鳥が飛立つ様な別れ方であつたから、源助一人の立つた後は、祭礼《おまつり》の翌日《あくるひ》か、男許りの田植の様で、何としても物足らぬ。閑人の誰彼は、所在無げな顔をして、呆然《ぼんやり》と門口に立つてゐた。一月許りは、寄ると触ると行つた人の話で、立つ時は白井様で二十円呉れたさうだし、村中からの御餞別を合せると、五十円位集つたらうと、羨ましさうに計算する者もあつた。それ許りぢやない、源助さんは此五六年に、百八十両もおツ貯めたげなと、知つたか振をする爺もあつた。が、此源助が、白井様の分家の、四六時中《しよつちゆう》リユウマチで臥《ね》てゐる奥様に、或る特別の慇懃《いんぎん》を通じて居た事は、誰一人知る者がなかつた。
 二十日許りも過ぎてからだつたらうか、源助の礼状の葉書が、三十枚も一度に此村に舞込んだ。それが又、それ相応に一々文句が違つてると云ふので、人々は今更の様に事々しく、渠の万事《よろづ》に才が廻つて、器用であつた事を語り合つた。其後も、月に一度、三月に二度と、一年半程の間は、誰へとも限らず、源助の音信があつたものだ。
 理髪店《とこや》の店は、其頃兎や角一人前になつたノロ勘が譲られたので、唯《たつた》一軒しか無い僥倖《しあはせ》には、其|間《ま》が抜けた無駄口に華客《おきやく》を減らす事もなく、かの凸凹の大きな姿見が、今猶人の顔を長く見せたり、扁《ひらた》く見せたりしてゐる。
 其源助さんが四年振で、突然遣つて来たといふのだから、もう殆ど忘れて了つてゐた村の人達が、男といはず女といはず、腰の曲つた老人《としより》や子供等まで、異様に驚いて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つたのも無理はない。

     二

 それは盆が過ぎて二十日と経たぬ頃の事であつた。午中《ひるなか》三時間許りの間は、夏の最中《もなか》にも劣らぬ暑気で、澄みきつた空からは習《そよ》との風も吹いて来ず、素足の娘共は、日に焼けた礫《こいし》の熱いのを避けて、軒下の土の湿りを歩くのであるが、裏畑の梨の樹の下に落ちて死ぬ蝉の数と共に、秋の香《かをり》が段々深くなつて行く。日出《ひので》前の水汲に素袷《すあはせ》の襟元寒く、夜は村を埋めて了ふ程の虫の声。田といふ田には稲の穂が、琥珀色に寄せつ返しつ波打つてゐたが、然し、今年は例年よりも作が遙《ずつ》と劣つてゐると人々が呟《こぼ》しあつてゐた。
 春から、夏から、待ちに待つた陰暦の盂蘭盆《うらぼん》が来ると、村は若い男と若い女の村になる。三晩続けて徹夜《よどほし》に踊つても、猶踊り足らなくて、雨でも降れば格別、大抵二十日盆が過ぎるまでは、太鼓の音に村中の老人《としより》達が寝つかれぬと口説く。それが済めば、苟《いやし》くも病人不具者でない限り、男といふ男は一同|泊掛《とまりがけ》で東嶽《ひがしだけ》に萩刈に行くので、娘共の心が訳もなくがつかりして、一年中の無聊を感ずるのは此時である。それも例年ならば、収穫後《とりいれご》の嫁取婿取の噂に、嫉妬《やきもち》交りの話の種は尽きぬのであるけれども、今年の様に作が悪くては、田畑が生命《いのち》の百姓村の悲さに、これぞと気の立つ話もない。其処へ源助さんが来た。
 突然《いきなり》四年振で来たといふ噂に驚いた人達は、更に其源助さんの服装《みなり》の立派なのに二度驚かされて了つた。万《よろづ》の知識の単純な人達には何色とも呼びかねる、茶がかつた灰色の中折帽は、此村で村長様とお医者様と、白井の若旦那の外冠る人がない。絵甲斐絹《ゑかひき》の裏をつけた羽織も、袷も、縞ではあるが絹布物《やはらかもの》で、角帯も立派、時計も立派。中にもお定の目を聳《そばだ》たしめたのは、づつしりと重い総革の旅行鞄であつた。
 宿にしたのは、以前《もと》一番懇意にした大工の兼さんの家であつたが、其夜は誰彼の区別なく其|家《うち》を見舞つたので、奥の六畳間に三分心の洋燈《ランプ》は暗かつたが、入交り立交りする人の数は少くなく、潮《しほ》の様な虫の音も聞えぬ程、賑かな話声が、十一時過ぐるまでも戸外《そと》に洩れた。娘共は流石に、中には入りかねて、三四人店先に腰掛けてゐたが、其家の総領娘のお八重といふのが、座敷から時々出て来て、源助さんの話を低声《こごゑ》に取次した。
 源助さんは、もう四十位になつてゐるし、それに服装の立派なのが一際品格を上げて、挙動《ものごし》から話振から、昔よりは遙かに容体づいてゐた。随つて、其昔「お前《めえ》」とか「其方《そご》」とか呼び慣してゐた村の人達も、期せずして皆「お前様《めえさま》」と呼んだ。其夜の話では、源助は今度函館にゐる伯父が死んだのへ行つて来たので、汽車の帰途《かへり》の路すがら、奈何《どう》しても通抜《とほりぬけ》が出来なかつたから、突然ではあつたが、なつかしい此村を訪問したと云ふ事、今では東京に理髪店を開いてゐて、熟練《じゆくれん》な職人を四人も使つてるが、それでも手が足りぬ程|急《いそ》がしいといふ事であつた。
 此話が又、響を打つて直ぐに村中に伝はつた。
 理髪師といへば、余り上等な職業でない事は村の人達でも知つてゐる。然し東京
次へ
全9ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング