側に『小野』と記した軒燈の、點火《とも》り初めた許りの所へ行つて、『此の家だ。』と源助は入口の格子をあけた。お定は遂ぞ覺えぬ不安に打たれた。

 源助は三十分許り經《た》つと歸つて行つた。
 竹筒臺の洋燈《ランプ》が明るい。茶棚やら箪笥やら、時計やら、箪笥の上の立派な鏡臺やら、八疊の一室にありとある物は皆、お定に珍らしく立派なもので。黒柿の長火鉢の彼方に、二寸も厚い座蒲團に坐つた奧樣の年は二十五六、口が少しへ[#「へ」に傍点]の字になつて鼻先が下に曲つてるけれども、お定には唯立派な奧樣に見えた。お定は洋燈の光に小さくなつて、石の如く坐つてゐた。
 銀行に出る人と許り聞いて來たのであるが、お定は銀行の何ものなるも知らぬ。其旦那樣はまだお歸りにならぬといふ事で、五歳《いつゝ》許りの、眼のキョロ/\した男の兒が、奧樣の傍に横になつて、何やら繪のかいてある雜誌を見つゝ、時々不思議相にお定を見てゐた。
 奧樣は、源助を送り出すと、其儘手づから洋燈を持つて、家の中の部屋々々をお定に案内して呉れたのであつた。玄關の障子を開けると三疊、横に六疊間、奧が此八疊間、其奧にも一つ六疊間があつて主人夫婦の寢室になつてゐる。臺所の横は、お定の室と名指された四疊の細長い室で、二階の八疊は主人の書齋である。
 さて、奧樣は、眞白な左の腕を見せて、長火鉢の縁《ふち》に臂《ひぢ》を突き乍ら、お定のために明日からの日課となるべき事を細々と説くのであつた。何處の戸を一番先に開けて、何處の室の掃除は朝飯過で可いか。來客のある時の取次の仕方から、下駄靴の揃へ樣、御用聞に來る小僧等への應對の仕方まで、艶のない聲に諄々と喋り續けるのであるが、お定には僅かに要領だけ聞きとれたに過ぎぬ。
 其處へ旦那樣がお歸りになると、奧樣は座を讓つて、反對の側の、先刻まで源助の坐つた座蒲團に移つたが、
『貴郎《あなた》、今日は大層遲かつたぢやございませんか?』
『ああ、今日は重役の鈴木ン許《とこ》に※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つたもんだからな。(と言つてお定の顏を見てゐたが、)これか、今度の女中は?』
『ええ、先刻菊坂の理髮店《とこや》だつてのが伴れて來ましたの。(お定を向いて)此方が旦那樣だから御挨拶しな』
『ハ。』と口の中で答へたお定は、先刻からもう其挨拶に困つて了つて、肩をすぼめて切ない思ひをしてゐた
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