》で歩いた方が遙か優《ま》しだ。
大都は其凄まじい轟々たる響きを以て、お定の心を壓した。然しお定は別に郷里に歸りたいとも思はなかつた。それかと言つて、東京が好なのでもない。此處に居ようとも思はねば、居まいとも思はぬ。一刻の前をも忘れ、一刻の後をも忘れて、温《おと》なしいお定は疲れてゐるのだ。ただ疲れてゐるのだ。
煎餅を盛つた小さい盆を持つて、上つて來たお吉は、明日お湯屋に伴《つ》れて行くと言つて下りて行つた。
九時前に二人は蒲團を延べた。
三日目は雨。
四日目は降りみ降らずみ。九月ももう二十日を過ぎたので、殘暑の汗を洗ふ雨の糸を、初秋めいたうそ寒さが白く見せて、蕭々《しと/\》と廂《ひさし》を濡らす音が、山中の村で聞くとは違つて、厭に陰氣な心を起させる。二人はつくねん[#「つくねん」に傍点]として相對した儘、言葉少なに郷里《くに》の事を思出してゐた。
午餐《おひる》が濟んで、二人がまだお吉と共に勝手にゐたうちに、二人の奉公口を世話してくれたといふ、源助と職業《しごと》仲間の男が來て、先樣《さきさま》では一日も早くといふから、今日中に遣《や》る事にしたら怎《どう》だと言つた。
源助は、二人がまだ何も東京の事を知らぬからと言ふ樣な事を言つてゐたが、お吉は、行つて見なけや何日までだつて慣れぬといふ其男の言葉に賛成した。
遂に行く事に決つた。
で、お吉は先づお八重、次にお定と、髮を銀杏返しに結つてくれたが、お定は、餘り前髮を大きく取つたと思つた、帶も締めて貰つた。
三時頃になつて、お八重が先づ一人源助に伴《とも》なはれて出て行つた。お定は急に淋しくなつて七福神の床の間に腰かけて、小さい胸を犇《ひし》と抱いた。眼には大きい涙が。
一時間許りで源助は歸つて來たが、先樣の奧樣は淡白《きさく》な人で、お八重を見るや否や、これぢや水道の水を半年もつかふと、大した美人になると言つた事などを語つた。
早目に晩餐《ばんめし》を濟まして、今度はお定の番。すぐ近い坂の上だといふ事で、風呂敷包を提げた儘、黄昏時《たそがれどき》の雨の霽間を源助の後に跟《つ》いて行つたが、何と挨拶したら可いものかと胸を痛めながら悄然《しよんぼり》と歩いてゐた。源助は、先方でも眞の田舍者な事を御承知なのだから、萬事間違のない樣に奧樣の言ふ事を聞けと繰返し教へて呉れた。
眞砂町のトある小路、右
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