だと考へた。
 理髮店に歸ると、源助は黒い額に青筋立てて、長火鉢の彼方《あつち》に怒鳴つてゐた。其前には十七許りの職人が平蜘蛛《ひらくも》の如く匍《うづくま》つてゐる。此間から見えなかつた斬髮機《バリカン》が一挺、此職人が何處かに隱し込んで置いたのを見附かつたとかで、お定は二階の風呂敷包が氣になつた。
 二人はもう、身體も心も綿の如く疲れきつてゐて、晝頃何處やらで蕎麥を一杯宛食つただけなのに、燈火《あかり》がついて飯になると、唯一膳の飯を辛《やつ》と喉を通した。頭腦《あたま》は※[#「りっしんべん+「夢」の「タ」に代えて「目」」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》としてゐて、これといふ考へも浮ばぬ。話も興がない。耳の底には、まだ轟々たる都の轟きが鳴つてゐる。
 幸ひ好い奉公の口があつたが、先づ四五日は緩《ゆつく》り遊んだが可《よ》からうといふ源助の話を聞いて、二人は夕餐が濟むと間もなく二階に上つた。二人共『疲れた。』と許り、べたりと横に坐つて、話もない。何處かしら非常に遠い所へ行つて[#「行つて」は底本では「行つた」]來た樣な心地である。淺草とか日比谷とかいふ語だけは、すぐ近間《ちかく》にある樣だけれど、それを口に出すには遠くまで行つて來なけやならぬ樣に思へる。一時間前まで見て來て色々の場所、あれも/\と心では數へられるけれど、さて其景色は仲々眼に浮ばぬ。目を瞑ると轟々たる響。玉乘や、勸工場の大きな花瓶が、チラリ、チラリと心を掠《かす》める。足下から鳩が飛んだりする。
  お吉が、『電車ほど便利なものはない。』と言つた。然しお定には、電車程怖ろしいものはなかつた。線路を横切つた時の心地は、思出しても冷汗が流れる。後先を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]して、一町も向うから電車が來ようものなら、もう足が動かぬ、漸《や》つとそれを遣《や》り過して、十間も行つてから思切つて向側に驅ける。先づ安心と思ふと胸には動悸が高い。況《ま》して乘つた時の窮屈《きうくつ》さ。洋服着た男とでも肩が擦れ/\になると、譯もなく身體が縮んで了つて、些《ちよい》と首を動かすにも頸筋が痛い思ひ。停《とま》るかと思へば動き出す。動き出したかと思へば停る。しつきりなしの人の乘降《のりおり》、よくも間違が起らぬものと不思議に堪へなかつた。電車に一町乘るよりは、山路を三里|素足《はだし
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