ので、恁《か》ういはれると忽ち火の樣に赤くなつた。
『何卒《どうか》ハ、お頼申《たのまを》します。』と、聞えぬ程に言つて、兩手を突く。旦那樣は、三十の上を二つ三つ越した髭の嚴しい立派な人であつた。
『名前は?』
といふを冒頭《はじめ》に、年も訊かれた、郷里も訊かれた、兩親のあるか無いかも訊かれた。學校へ上つたか怎《どう》かも訊かれた。お定は言葉に窮《こま》つて了つて、一言言はれる毎に穴あらば入りたくなる。足が耐へられぬ程|痲痺《しび》れて來た。
稍あつてから、『今晩は何もしなくても可《い》いから、先刻《さつき》教へたアノ洋燈《ランプ》をつけて、四疊に行つてお寢《やす》み。蒲團は其處の押入に入つてある筈だし、それから、まだ慣れぬうちは夜中に目をさまして便所にでもゆく時、戸惑ひしては不可《いけない》から、洋燈は細めて危なくない所に置いたら可いだらう。』と言ふ許可《ゆるし》が出て、奧樣から燐寸《マツチ》を渡された時、お定は甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》に嬉しかつたか知れぬ。
言はれた通りに四疊へ行くと、お定は先づ兩脚を延ばして、膝頭を輕く拳《こぶし》で叩いて見た。一方に障子二枚の明りとり、晝はさぞ暗い事であらう。窓と反對の、奧の方の押入を開けると、蒲團もあれば枕もある。妙な臭氣が鼻を打つた。
お定は其處に膝をついて、開けた襖に[#「に」は底本では「を」]片手をかけた儘一時間許りも身動きをしなかつた。先づ明日の朝自分の爲《せ》ねばならぬ事を胸に數へたが、お八重さんが今頃|怎《どう》してる事かと、友の身が思はれる。郷里《くに》を出て以來、片時も離れなかつた友と別れて、源助にもお吉にも離れて、ああ、自分は今初めて一人になつたと思ふと、温なしい娘心はもう涙ぐまれる。東京の女中! 郷里《くに》で考へた時は何ともいへぬ華やかな樂しいものであつたに、……然《さ》ういへば自分はまだ手紙も一本郷里へ出さぬ。と思ふと、兩親の顏や弟共の聲、馬の事、友達の事、草苅の事、水汲の事、生れ故郷が詳らかに思出されて、お定は凝《ぢつ》と涙の目を押瞑《おしつむ》つた儘、『阿母《あツぱあ》、許してけろ。』と胸の中で繰返した。
左《さ》う右《か》うしてるうちにも、神經が鋭くなつて、壁の彼方から聞える主人夫婦の聲に、若しや自分の事を言やせぬかと氣をつけ
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