多きを喜ぶ。さればお定は、丑之助がお八重を初め三人も四人も情婦を持つてる事は熟《よ》く知つてゐるので、或晩の如きは、男自身の口から其情婦共の名を言はして擽《くすぐ》つて遣《や》つた位。二人の間は別に思合つた譯でなく、末の約束など眞面目にした事も無いが、怎《どう》かして寢つかれぬ夜などは、今頃丑さんが女と寢てゐるかと、嫉《や》いて見た事のないでもない。私とお八重さんが居なくなつたら、丑さんは屹度お作の所に許りゆくだらうと考へると、何かしら妬《ねた》ましい樣な氣もした。
胸に浮ぶ思の數々は、それからそれと果《はて》しも無い。お定は幾度か一人で泣き、幾度か一人で微笑《ほほゑ》んだ。そして、遂うと/\となりかゝつた時、勝手の方に寢てゐる末の弟が、何やら聲高に寢言を言つたので、はツと目が覺め、嗚呼あの弟は淋しがるだらうなと考へて、睡氣《ねむけ》交りに涙ぐんだが、少女心の他愛なさに、二人の弟が貰ふべき嫁を、誰彼となく心で選んでゐるうちに、何時しか眠つて了つた。
四
目を覺ますと、弟のお清書を横に逆まに貼つた、枕の上の煤けた櫺子《れんじ》が、僅かに水の如く仄めいてゐる。誰もまだ起きてゐない。遠近《をちこち》で二番鷄が勇ましく時をつくる。けたゝましい羽搏《はばた》きの音がする。
お定はすぐ起きて、寢室《ねま》にしてゐる四疊半許りの板敷を出た。手探りに草履《ざうり》を突《つゝ》かけて、表裏の入口を開けると、厩では乾秣《やた》を欲《ほ》しがる馬の、破目板を蹴《け》る音がゴトゴトと鳴る。大桶を二つ擔《かつ》いで、お定は村端《むらはづれ》の樋の口といふ水汲場に行つた。
例になく早いので、まだ誰も來てゐなかつた。漣《さゞなみ》一つ立たぬ水槽の底には、消えかゝる星を四つ五つ鏤《ちりば》めた黎明の空が深く沈んでゐた。清冽な秋の曉の氣が、いと冷かに襟元から總身に沁む。叢にはまだ夢の樣に蟲の音がしてゐる。
お定は暫時《しばし》水を汲むでもなく、水鏡に寫つた我が顏を瞶《みつ》めながら、呆然《ぼんやり》と昨晩の《ゆうべ》の事を思出してゐた。東京といふ所は、ずつと/\遠い所になつて了つて、自分が怎《どう》して其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》所まで行く氣になつたらうと怪まれる。矢張自分は此村に生れたのだから、此村で一生暮らす方が本
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