議な位。夢中になつて其後から駈け出したが、医者の門より二三軒手前の私の家へ飛び込むと、突然《いきなり》仕事してゐた父の膝に突伏した儘、気を失つて了つたのださうな。
藤野さんは、恁《か》うして死んだのである。
も一つの追憶も、其頃の事、何方が先であつたか忘れたが、矢張夏の日の赫灼《かくしやく》たる午後の出来事と憶えてゐる。
村から一里許りのK停車場に通ふ荷馬車が、日に二度も三度も、村端《むらはづれ》から真直に北に開いた国道を塵塗《ちりまみ》れの黒馬の蹄に埃を立てて往返りしてゐた。其日私共が五六人、其空荷馬車に乗せて貰つて、村端から三四町の、水車へ行く野川の土橋まで行つた。一行は皆腕白盛りの百姓子、中に脳天を照りつける日を怖れて大きい蕗の葉を帽子代りに頭に載せたのもあつた。
土橋を渡ると、両側は若松の並木、其路傍の松蔭の夏草の中に、汚い服装《なり》をした一人の女乞食が俯臥《うつぶせ》に寝てゐて、傍には、生れて満一年と経たぬ赤児が、嗄れた声を絞つて泣きながら、草の中を這廻つてゐた。
それを見ると、馬車曳の定老爺が馬を止めて、『怎しただ?』と声をかけた。私共は皆馬車から跳下りた。
女乞食は、大儀相に草の中から頭を擡《もた》げたが、垢やら埃やらが流るる汗に斑《ふ》ちて、鼻のひしやげた醜い面に、謂ふべからざる疲労と苦痛の色。左の眉の上に生々しい痍《きず》があつて、一筋の血が頬から耳の下に伝つて、胸の中へ流れてゐる。
『馬に蹴られて、歩けねえだもん。』と、絶え入りさうに言つて、又俯臥した。
定老爺は、暫く凝《じつ》と此女乞食を見てゐたが、『村まで行つたら可がべえ。医者様もあるし巡査も居るだア。』と言捨てゝ、ガタ/\荷馬車を追つて行つて了つた。
私共は、ズラリと女の前に立披《たちはだか》つて見てゐた。稍あつてから、豊吉が傍に立つてゐる万太郎といふのの肩を叩いて、『汚ねえ乞食《ほいど》だでア喃《なあ》。首玉ア真黒だ。』
草の中の赤児が、怪訝相《けげんさう》な顔をして、四這《よつばひ》になつた儘私共を見た。女はビクとも動かぬ。
それを見た豊吉は、遽《には》かに元気の好い声を出して、『死んだどウ、此乞食ア。』と言ひながら、一掴《ひとつか》みの草を採つて女の上に投げた。『草かけて埋めてやるべえ。』
すると、皆も口々に言罵つて、豊吉のした通りに草を投げ初めた。私は一人遠くに離れてゐる様な心地でそれを見てゐた。
と、赤児が稍大きい声で泣き出した。女は草の中から顔を擡げた。
『やあ、生きた/\。また生きたでア。』と喚《わ》めきながら、皆は豊吉を先立てゝ村の方に遁げ出した。私は怎したものか足が動かなかつた。
醜い乞食の女は、流れた血を拭かうともせず、どんよりとした疲労の眼を怨し気に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、唯一人残つた私の顔を凝《じつ》と瞶めた。私も瞶めた。其、埃と汗に塗れた顔を、傾きかけた夏の日が、強烈な光を投げて憚りもなく照らした。頬に流れて頸から胸に落ちた一筋の血が、いと生々しく目を射た。
私は、目が眩《くるめ》いて四辺《あたり》が暗くなる様な気がすると、忽ち、いふべからざる寒さが体中を戦《をのの》かせた。皆から三十間も遅れて、私も村の方に駈け出した。
然し私は、怎したものか先に駈けて行く子供等に追つかうとしなかつた。そして、二十間も駈けると、立止つて後を振返つた。乞食の女は、二尺の夏草に隠れて見えぬ。更に豊吉等の方を見ると、もう乞食の事は忘れたのか、声高に「吾は官軍」を歌つて駈けてゐた。
私は其時、妙な心地を抱いてトボ/\と歩き出した。小い胸の中では、心にちらつく血の顔の幻を追ひながら、「先生は不具者《かたは》や乞食に悪口を利いては不可ないと言つたのに、豊吉は那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》事をしたのだから、たとひ豊吉が一番で私が二番でも、私より豊吉の方が悪い人だ。」といふ様な事を考へてゐたのであつた。
あはれ、其後の十幾年、私は村の小学校を最優等で卒《を》へると、高島先生の厚い情によつて、盛岡の市の高等小学校に学んだ。其処も首尾よく卒業して、県立の師範学校に入つたが、其夏父は肺を病んで死んだ。間もなく、母は隣村の実家に帰つた。半年許りして、或事情の下に北海道に行つたとまで知つてゐるが、生きてゐるとも死んだとも、消息を受けた人もなければ、尋ねる的《あて》もない。
私は二十歳の年に高等師範に進んで、六箇月前にそれも卒へた。卒業試験の少し前から出初めた悪性の咳が、日ましに募つて来て、此鎌倉の病院生活を始めてからも、既に四箇月余りを過ぎた。
学窓の夕、病室の夜、言葉に文に友の情は沁み/″\と身に覚えた。然し私は、何故か多くの友の
前へ
次へ
全7ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング