如く恋といふものを親しく味つた事がない。或友は、君は余りに内気で、常に警戒をし過ぎるからだと評した。或は然《さ》うかも知れぬ。或友は、朝から晩まで黄巻堆裡に没頭して、全然社会に接せぬから機会がなかつたのだと言つた。或は然うかも知れぬ。又或友は、知識の奴隸になつて了つて、氷の如く冷酷な心になつたからだと冷笑した。或は実に然うなのかも知れぬ。
幾人の人を癒やし、幾人の人を殺した此寝台の上、親み慣れた薬の香を吸うて、濤音《なみおと》遠き枕に、夢むともなく夢むるのは十幾年の昔である。ああ、藤野さん! 僅か八歳の年の半年余の短い夢、無論恋とは言はぬ。言つたら人も笑はうし、自分でも悲しい。唯、木蔭地《こさぢ》の湿気《しめりけ》にも似て、日の目も知らぬ淋しき半生に、不図天上の枝から落ちた一点の紅は其人である。紅と言へば、あゝ、かの八月の炎天の下、真白き脛《はぎ》に流れた一筋の血! まざまざとそれを思出す毎に、何故といふ訳もなく私は又、かの夏草の中に倒れた女乞食を思出すのである。と、直ぐ又私は、行方知れぬ母の上に怖しい想像を移す。喀血の後、昏睡の前、言ふべからざる疲労の夜の夢を、幾度となく繰返しては、今私の思出に上る生《うみ》の母の顔が、もう真の面影ではなくて、かの夏草の中から怨めし気に私を見た、何処から来て何処へ行つたとも知れぬ、女乞食の顔と同じに見える様になつたのである。病める冷き胸を抱いて、人生の淋しさ、孤独の悲しさに遣瀬もない夕べ、切に恋しきは、文字を学ぶ悦びを知らなかつた以前である。今迄に学び得た知識それは無論、極く零砕なものではあるけれ共、私は其為に半生の心血を注ぎ尽した。其為に此病をも得た。而して遂に、私は果して何を教へられたであらう? 何を学んだであらう? 学んだとすれば、人は何事をも真に知り得ざるものだといふ、漠然たる恐怖唯一つ。
ああ、八歳の年の三月三十日の夕! 其以後、先づ藤野さんが死んだ。路傍の草に倒れた女乞食を見た。父も死んだ。母は行方知れずになつた。高島先生も死んだ。幾人の友も死んだ。軈《やが》ては私も死ぬ。人は皆散り/″\である。離れ/″\である。所詮は皆一様に死ぬけれども、死んだとて同じ墓に眠れるでもない。大地の上の処々、僅か六尺に足らぬ穴に葬られて、それで言語も通はねば、顔も見ぬ。上には青草が生える許り。
男と女が不用意の歓楽に耽つてゐる時、其不用意の間から子が出来る。人は偶然に生れるのだと思ふと、人程痛ましいものはなく、人程悲しいものはない。其偶然が、或る永劫に亘る必然の一連鎖だと考へれば、猶痛ましく、猶悲しい。生れなければならぬものなら、生れても仕方がない。一番早く死ぬ人が、一番幸福な人ではなからうか!
去年の夏、久し振りで故郷を省した時、栗の古樹の下の父が墓は、幾年の落葉に埋れてゐた。清光童女と記した藤野さんの小さい墓碑は、字が見えぬ程雨風に侵蝕されて、萱草の中に隠れてゐた。
立派な新築の小学校が、昔草原であつた、村の背後の野川の岸に立つてゐた。
変らぬものは水車の杵の数許り。
十七の歳、お蒼前様の祭礼に馬から落ちて、右の脚を折り左の眼を潰した豊吉は、村役場の小使になつてゐて、私が訪ねて行つた時は、第一期地租附加税の未納督促状を、額の汗を拭き/\謄写版で刷つてゐた。
[#地から1字上げ]〔生前未発表・明治四十一年六月稿〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
底本の親本:「啄木全集 第一巻 小説」新潮社
1919(大正8)年4月21日発行
初出:「啄木全集 第一巻 小説」新潮社
1919(大正8)年4月21日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年6月7日作成
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