低く言つて、二度許り歔欷《すすり》あげた。
『富太郎さん(新家の長男)に苛責《いぢめ》られたのすか?』
『二人に。』
私は何とか言つて慰めたかつたが、何とも言ひ様がなくて、黙つて顔を瞶《みつ》めてゐると、『これ上げようかな?』と言つて、花簪を弄つたが、『お前は男だから。』と後に隠す振をするなり、涙に濡れた顔に美しく笑つて、バタ/\と門の中へ駈けて行つて了つた。私は稚い心で、藤野さんが二人の従兄弟に苛責《いぢめ》られて泣いたので、阿母さんが簪を呉れて賺《すか》したのであらうと想像して、何といふ事もなく富太郎のノツペリした面相《つらつき》が憎らしく、妙な心地で家に帰つた事があつた。
何日《いつ》しか四箇月が過ぎて、七月の末は一学期末の試験。一番は豊吉、二番は私、藤野さんが三番といふ成績を知らせられて、夏休みが来た。藤野さんは、豊吉に敗けたのが口惜しいと言つて泣いたと、富太郎が言囃《いひはや》して歩いた事を憶えてゐる。
休暇となれば、友達は皆、本や石盤の置所も忘れて、毎日々々山蔭の用水池に水泳に行くものであつた。私も一寸々々《ちよいちよい》一緒に行かぬではなかつたが、怎してか大抵一人先に帰つて来るので、父の仕事場にしてある店先の板間に、竹屑やら鉋屑《かんなくづ》の中に腹匍《はらばひ》になつては、汗を流しながら読本を復習《さらつ》たり、手習をしたりしたものだ。そして又、目的もなく軒下の日陰に立つて、時々藤野さんの姿の見えるのを待つてゐたものだ。
すると大変な事が起つた。
八月一杯の休暇、其中旬頃とも下旬頃とも解らぬが、それは/\暑い日で、空には雲一片なく、脳天を焙《あぶ》りつける太陽が宛然《まるで》火の様で、習《そよ》との風も吹かぬから、木といふ木は皆死にかかつた様に其葉を垂れてゐた。家々の前の狭い溝には、流れるでもない汚水の上に、薄曇つた泡が数限りなく腐つた泥から湧いてゐて、日に晒された幅広い道路の礫《こいし》は足を焼く程暖く、蒸された土の温気が目も眩《くら》む許り胸を催嘔《むかつか》せた。
村の後ろは広い草原になつてゐて、草原が尽きれば何十町歩の青田、それは皆近江屋の所有地であつたが、其青田に灌漑する、三間許りの野川が、草原の中を貫いて流れてゐた。野川の岸には、近江屋が年中米を搗かせてゐる水車小屋が立つてゐた。
春は壺菫に秋は桔梗《ききやう》女郎花《をみなへし》、其草原は四季の花に富んでゐるので、私共はよく遊びに行つたものだが、其頃は、一面に萱草の花の盛り、殊にも水車小屋の四周《まはり》には沢山咲いてゐた。小屋の中には、直径二間もありさうな大きい水車が、朝から晩までギウ/\と鈍い音を立てて廻つてゐて、十二本の大杵が断間もなく米を搗いてゐた。
私は其日、晒布《さらし》の袖無を着て帯も締めず、黒股引に草履を穿いて、額の汗を腕で拭き/\、新家の門と筋向になつた或駄菓子屋の店先に立つてゐた。
と、一町程先の、水車小屋へ曲る路の角から、金次といふ近江屋の若者が、血相変へて駈けて来た。
『何したゞ?』と誰やら声をかけると、
『藤野|様《さん》ア水車の心棒に捲かれて、杵に搗かれただ。』と大声に喚いた。私は偽《うそ》とも真《まこと》とも解らず、唯強い電気にでも打たれた様に、思はず声を立てて『やあ』と叫んだ。
と、其若者の二十間許り後から、身体中真白に米の粉を浴びた、髭面の骨格の逞ましい、六尺許りの米搗男が、何やら小脇に抱へ込んで、これも疾風《はやて》の如くに駈けて来た。見るとそれは藤野さんではないか!
其男が新家の門の前まで来て、中に入らうとすると、先に知らせに来た若者と、肌脱ぎした儘の新家の旦那とが飛んで出て来て、『医者へ、医者へ。』と叫んだ。男は些《ちよつ》と足淀《あしよどみ》して、直ぐまた私の立つてゐる前を医者の方へ駈け出した。其何秒時の間に、藤野さんの変つた態が、よく私の目に映つた。男は、宛然《まるで》鷲が黄鳥《うぐひす》でも攫《つかま》へた様に、小さい藤野さんを小脇に抱へ込んでゐたが、美しい顔がグタリと前に垂れて、後には膝から下、雪の様に白い脚が二本、力もなくブラ/\してゐた。其左の脚の、膝頭から斜めに踵へかけて、生々しい紅の血が、三分程の幅に唯一筋!
其直ぐ後を、以前の若者と新家の旦那が駈け出した。旦那の又直ぐ後を、白地の浴衣を着た藤野さんの阿母《おつか》さん、何かしら手に持つた儘、火の様に熱した礫の道路を裸足で……
其キツと堅く結んだ口を、私は、鬼ごツこに私を追駈けた藤野さんに似たと思つた。無論それは一秒時の何百分の一の短かい間。
これは、百度に近い炎天の、風さへ動かぬ真昼時に起つた光景だ。
私は、鮮かな一筋の血を見ると、忽ち胸が嘔気を催す様にムツとして、目が眩んだのだから、阿母さんの顔の見えたも不思
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