は言葉をかけたが、返事はしないで長い袂の端を前齒で噛んでゐた。さうなると、私は性質としてもう何も言へなくなるので、自分まで妙に涙ぐまれる樣な氣がして來て、默つて大柄杓で水を汲んだが、桶を擔いで歩き出すと、『新太郎さん。』と呼止められた。
『何す?』
『好い物見せるから。』
『何だす?』
『これ。』と言つて、袂の中から丁寧に、美しい花簪を出して見せた。
『綺麗だなす。』
『…………。』
『買つたのすか?』
藤野さんは頭を振る。
『貰つたのすか?』
『阿母さんから。』と低く言つて、二度許り歔欷《すゝり》あげた。
『富太郎さん(新家の長男)に苛責《いぢめ》められたのすか?』
『二人に。』
私は何とか言つて慰めたかつたが、何とも言ひ樣がなくて、默つて顏を瞶《みつ》めてゐると、『これ上げようかな?』と言つて、花簪を弄《いぢく》つたが、『お前は男だから。』と後《うしろ》に隱す振《ふり》をするなり、涙に濡れた顏に美しく笑つて、バタバタと門の中へ駈けて行つて了つた。私は稚い心で、藤野さんが二人の從兄弟に苛責《いぢめ》られて泣いたので、阿母さんが簪を呉れて賺《すか》したのであらうと想像して、何といふ事もなく富太郎のノッペリした面相《つらつき》が憎らしく、妙な心地で家に歸つた事があつた。
何日《いつ》しか四箇月が過ぎて、七月の末は一學期末の試驗。一番は豐吉、二番は私、藤野さんが三番といふ成績を知らせられて、夏休みが來た。藤野さんは、豐吉に敗けたのが口惜《くやし》いと言つて泣いたと、富太郎が言囃《いひはや》して歩いた事を憶《おぼ》えてゐる。
休暇となれば、友達は皆、本や石盤の置所も忘れて、毎日々々山蔭の用水池に水泳に行くのであつた。私も一寸々々《ちょい/\》一緒に行かぬではなかつたが、怎《どう》してか大抵一人先に歸つて來るので、父の仕事場にしてある店先の板間に、竹屑やら鉋屑の中に腹匍《はらばひ》になつては、汗を流しながら讀本を復習《さらつ》たり、手習をしたりしたものだ。そして又、目的《あて》もなく軒下の日陰に立つて、時々藤野さんの姿の見えるのを待つてゐたものだ。
すると大變な事が起つた。
八月一杯の休暇、其中旬頃とも下旬頃とも解らぬが、それは/\暑い日で、空には雲一片なく、腦天を焙《い》りつける太陽が宛然《まるで》火の樣で、習《そよ》との風も吹かぬから、木といふ木が皆死にか
前へ
次へ
全15ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング